Fahrenheit -華氏- Ⅲ
危険な綱渡り。
♥Ruka♥
啓に―――抱き止められるなんてどれぐらいぶりだろう。
随分前な気がするけれど、日にちにしてはそう経っていない。
でもあたしには何年かぶりに思えた。
あたしの中で―――ときが止まっているのか、それともとても早く秒針が動いているのか。
秒針……
あたしの心臓で早い秒針の音が鳴った。
二村さんの登場で離れていきそうになったけれど。
二村さんは
「部長、今日の夜の予定はどうなってますか?」
後ろで手を組み、二村さんがにやにやしながら近づいてくる。そしてわざとらしくない程度にちらりとあたしの方を見てきた。
二村さんは―――当然知っているのだ。今日、あたしが何をしようか、と言うことを。
あたしは無表情を二村さんに向けた。
彼は面白く無さそうに啓に視線を向け、啓は
「今日の夜……」と考え込んだ。
啓、今日の夜だけは『ここ』に来ないで。
切に願った。
彼を―――巻き込まれたくない。
けれど
「俺の予定がどうだろうが、お前にゃ関係ねぇだろ」と啓はそっけなく言い放つ。
結局、今夜の啓の予定は分からず、だ。
まっすぐ家に帰る?それともどこかへ飲みに行く?
紫利さんにお願いして引きつけてもらうべきだった。そんなことを考えていると
啓の手が遠ざかって行く。
待って!
よっぽどそう言って引き止めたかった。
あたしの焦燥……と言うか悲しみと言うか、ほんの少しの感情を読み取ったのだろうか
ニヤニヤ顔の二村さんがまたも啓を……と言うかあたしを?挑発するように
「そうなんですね~、一緒に呑みに行こうかと思って。あ、その後キャバクラとか行こうかなって」
飄々と言い切る。
啓は汚い何かを見るような目つきで「行かねぇよ」そっけなく返し、
あたしが落としたファイルを半分持ちながら、麻野さんから受け取った”何か”をスーツの胸ポケットに入れた。それを確かに見届け、ほんの僅か右耳を触れた。
啓は二村さんと、それから―――あたしに背を向ける。
啓が立ち去って行こうとしたときだった。
「あ、柏木さん重そうだから半分持つよ」と二村さんがまるで気味の悪いピエロのような笑みを浮かべてあたしのファイルを持とうとする。
「いえ、結構です。これぐらいなら」とあたしはそっけなく言い、彼からファイルを奪い返そうとしたときだった。
「持つよ、
柏木さん、
俺が半分持つ」
啓が戻ってきてファイルの半分を持つ。
ふわり、と啓が愛用しているFahrenheitが香ってきた。
久しぶりに近くで嗅ぐ彼の香り。
ああ、やっぱりあたしはこの香りが好き。
「持つよ、
君の荷物」