Fahrenheit -華氏- Ⅲ
店を出て、あたしは一度退社した職場に向かった。
警備員さんに
「お疲れ様です。忘れ物をしてしまいまして」と適当な嘘を着くと、全く疑った様子のない警備員さんは
「そうですか、お疲れ様です」と頭を下げた。
カードをスキャナーにかざし、あたしはワイヤレスイヤホンを耳に装着すると心音に電話を掛けた。
それをバッグに忍ばせながら
「会社に戻ったわ。警備員さんはあと30分で交替する。後は任せたわよ」
『OK~♪ここまでは順調ネ。出勤、退勤記録はあたしが塗りかえるわ』と心音がどこか楽しんでいるように声を弾ませる。『因みにケイトはもう退勤したわ、さっきハッキングして確認した』
その言葉にほっと胸を撫で下ろした。
心音が言う通り、出退勤の時間帯の記録を操作することなんて彼女には容易いことだろう。
あたしは堂々とエレベーターに乗り込み、そして堂々と自分のフロアの扉を開けた。
殆どが暗くなったフロアを眺めて目を細める。
残っているのは―――、外資物流とは一番かけ離れている広報部。僅かな明かりで確認する。
流石にこの時間帯に残っている社員は少ない。
そして次に目を向けたのが、隣のブース、物流管理本部。明かりは消えていた。
二村さんが”残業する”と言ったのは間違いなく嘘だ。”残業”を装って、どこかに隠れているのだろう。
計算済みだ。
最後に外資物流に目を向けると明かりは完全に消灯していて、ちょっとほっとした。
啓は―――帰ったようだ。
心音からは『退勤した』と聞いていたけれど、この目で見ないとどうも不安が払拭できなかった。
通常ならこの時間帯、彼は残業をしている。でも―――ただの勘に過ぎないけれど、彼は今日はどこかへ出かける……と思った。
今日一日彼を観察していて―――やたらと時計を気にしてたけれど、どこか気が重そうだった。
ため息を吐いてはシャキっと背筋を伸ばす、の繰り返しだった。
誰に会うのかは不明だ。
けれど今日だけは、誰だっていい。
彼の不在が―――
この日こそ、嬉しかったことはない。