Fahrenheit -華氏- Ⅲ
18日―――
まさに今日だ!
俺はファイルを乱暴に抜き、その紙を隅々まで見つめた。数週間前、二村がこの紙を持って脅してきて、この紙を瑠華に突き付けたから大体のことは覚えているが。
瑞野さんとお母さんは少し不思議そうに俺の行動を見守っていた。しかし、そんな視線を気にしていられない。
オークション開始時間は22:30
となっている。この遅い時間帯は全世界の時差を考慮してのことだろう。
勿論、会長の決裁印はない。
俺は慌ててタグ・ホイヤーの時計に視線を走らせた。
時間は23時少し前だ。
ひらひら……
またも俺の目の前を白いモンシロチョウが横切っていった。
幻かもしれない。この蝶は俺にしか見えてないかもしれない。
あの赤ん坊の手が蝶に代わって俺を手招きしているのか
―――或はこの後の運命が大きく変わろうとしているのか。
「部長…?」
瑞野さんが不安そうに目を上げてきて、俺は慌ててそのファイルを鞄に押し込んだ。
「瑞野さん、悪いけど俺、今から社に戻る」
俺はどんな顔をしていたのだろう。瑞野さんは一瞬怯えたように肩を震わせ
「……今から…ですか?」
「うん、トラブルが思いのほか大きかった」
俺は鞄を手に取り、お母さんにきっちり頭を下げた。
「お食事中大変申し訳ないのですが、トラブル……緊急事態になりまりして」
「え…!まぁ、それは大変!!」
お母さんは目を丸めた。
「申し訳ございませんが私は先に失礼いたします。この埋め合わせは絶対にさせていただきます」
俺はお母さんの返事を聞かず、鞄を持ち店を飛び出た。
タクシーを拾うつもりで大通りに出たが、その後を瑞野さんが追ってきた。
「部長!」
俺は無言で振り返った。
「あの……緊急事態って…そんなに大事なんですか……」
「ああ、かなり」そっけなくなってしまったのは気が急いていたのか、或はこの件に関して瑞野さんが一枚噛んでいるからなのか。
ちっ!
間が悪い。
タクシーが全然見つからない。
きょろきょろと視線を彷徨わせていると
瑞野さんが俺の手をそっと握ってきた。
思わず振り返る。
瑞野さんの手はアルコールを含んでいるのか、少しだけ熱かった。
「柏木補佐のところですか―――」
小さな手と同じだけ温度のある熱が籠った目で見つめられ、俺はふいと顏を逸らした。