Fahrenheit -華氏- Ⅲ
―――君には関係ない。
余程その言葉が出そうになったが、何とか留めた。
「ごめん、急いでるんだ」やんわりと手を離そうとしたが、瑞野さんの手は離れて行かない。
「行かないでください!」
久しぶりに聞いた、瑞野さんが声を荒げたのを。
けれどすぐに
「すみませ……でも、今日だけは……母もいるし」
「今度、お詫びで席を設けるから」
宥めるように言って手を引きはがそうとするも
「母は関係ないです。そうゆう体裁的なものじゃなく。ただ、ここに居てほしいんです」
瑞野さんが潤んだ目で俺を見上げてくる。
「行かないで。
柏木補佐の元に―――
行かないで」
瑞野さんの潤んだ瞳から涙の粒が浮かんでいた。
「瑞野さ……」
言いかけたとき、ぎょっとした。
しばらく見なかったあの赤ん坊の透き通る手が瑞野さんの肩に置かれている。
目を開いてその場を凝視して、思わず固まった。
赤ん坊の手は―――白いモンシロチョウになったわけじゃなかった―――?
しかし何で、今になって―――……
俺に行くなって言ってるのだろうか。この後瑞野さんの身に何か起ころうとしているのだろうか。
一瞬のうちにありとあらゆる考えが横行したが
その白い手は瑞野さんの肩に留まったまま、小さな、小さな人差し指を道路を向けている。
まばゆいヘッドライトが近づいてきて、俺は目を庇った。
レモンイエローの車体に赤帯をまとったカラーリングのタクシーが、近づいてきたのだ。
タクシーの行灯は赤色に点滅していた。フロントに表示されたモニターにも『空車』と表示されている。
俺は何も考えず、そのタクシーに向けて手をあげた。