Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「ちょっ…!啓っ!!」
走りながら、彼はどこに向かっているのか分からず彼の背中に声を掛けるのが精一杯。
「どこに行くのですか!」
やがて啓の足が緩まって、辿りついた先は―――何てことない、彼の車が停めてある駐車場だった。
後ろを振り返ると、葵さんは追ってくることをしなかった。
それが幸なのか不幸なのか―――
いえ、やはり幸ね。今、葵さんの存在を打ち明けるわけにはいかない。
例え啓であっても。
葵さんは―――ジョーカーだから。
青いZ4。少しの間だと思ったけれど、随分久しぶりに思うのが不思議だ。
啓の車の元まで行くと、彼はあたしの手をようやく離した。
お互い、肩で息をしている状態。
特にあたしの方はほぼ全力疾走と言う形になったから、呼吸するのも苦しい。
胸元を押さえて僅かに咳き込んでいると
「ごめん」
啓は突如として謝ってきた。不安げに眉を寄せている。まるで迷子の子供が母親を見つけたときのような―――ほんの少しの怯えと―――安堵。
「……いえ…」
「ごめん」
彼はもう一度謝ってきた。
何に対して謝ったのか分からない。あたしの方が啓に対して裏切り行為を働いたというのに。
ただ彼が謝る理由はただ一つ。葵さんからあたしを強引に―――さらうように走ってきたことだけだ。
「ごめん」
彼は三度目の『ごめん』を呟き、予告も無くあたしを抱き寄せた。
予想もしていなかった行動にあたしは目を開く。
啓の心臓の音が聞こえる。
それ程まで近くあたしたちの距離はゼロセンチ。
ちゃんと―――
ちゃんと真正面から抱きしめてもらえた。
啓の香りを感じる。大好きなFahrenheit。ぬくもり、体温。
あたしは彼の背中に手を回そうとして―――やめた。
やや強引にあたしの方から身を剥がすと、
ドンっ!
あたしは駐車場の壁に勢いよく手をついた。あたしの腕の中、今度は啓が目を開いた。
こうゆうの”壁ドン”っていうものかしら(最近、心音がハマッてるアニメで知った)
いいえ、普通は男性がするものね。
「本当に、あなたには迷惑しています」
冷めた目で彼を見上げ、冷たく言い放ち
トンっ
今度はやや軽るめに彼の胸に一枚の紙を突きつけた。
「”稟議書”です」
たった一言言い、啓がおずおずと突き付けられた”稟議書”を手に取る。
そしてその”稟議書”を見ると、ゆっくりと目を開いた。
「これ――――」
「言ったでしょう?あなたには迷惑をしているって。
”私たち”の計画を、邪魔しないでください」