Fahrenheit -華氏- Ⅲ
最後に一言言い、あたしは壁から手を離し、踵を返そうとした。
「待って!」
啓があたしの背後から声を掛けてきて、思わず振り返ってしまった。
啓はあたしの片方の手に握られたパンプスをゆっくりと引きはがすと、これまたゆっくりとあたしの足元に膝をつき、あたしの足をそっと持ち上げる。
「靴、履かないと危ない。
怪我、するよ」
それはまるでシンデレラが王子様から靴を履かせてもらっている、幼い頃何度も憧れたシーンの一つそのものだった。
怪我―――
もうしている。心に。
その傷は塞がることなく今も尚血を流し続けている。
啓はそっとあたしのつま先をパンプスに入れる。
膝まづいた啓の、いつになく無防備な頭頂部を見下ろす。
昨夜―――会社に泊まった、と言った。それとも走ってきたからなのか
多少は乱れていたものの、ラフにセットされていた柔らかい髪。
あたしはその頭頂部を見下ろし、僅かに腰を折った。
今度はあたしの方が、啓の頭を両手で挟みこみ、
彼の頭にそっと
キス。
啓の使っている柑橘系の爽やかなシャンプーの香りに混じってほんのわずかワックスの香り。
心地いい。
以前は何度もこの髪に手を入れ、セットされた啓の髪をぐしゃぐしゃにするのが好きだった。
彼はそうされる度くすぐったそうにして身をよじっていた。
あの頃の感触は変わらない。
「瑠―――……」
啓が顔を上げる気配がして、あたしは強引にパンプスを足を入れ、もう片方のパンプスも啓から奪うようにして取った。
「一人で歩けます」
そう言って、屈んだ姿勢でもう一方の靴に足を入れ、髪を軽くかきあげ
「それでは。今日は私の方もご迷惑をおかけしました。失礼します」
あたしは今度こそ啓に背を向け、歩き出した。
独りで。
今度こそ啓は追ってこなかった。