Fahrenheit -華氏- Ⅲ
可愛い人形の体温。
♥Ruka♥
あたしは何故―――啓の頭にキスなんて……
するつもりはなかったのに…
ううん、
したかった。
ずっと―――
啓の髪からもあたしの大好きなFahrenheitの香りがして、未だ尚鼻孔の奥を優しくくすぐっている。
「あーあ……とことん可愛くなれないな、あたしは…」
啓が履かせてくれたパンプスの中、足の裏だけが少しひりひりとしている。
けれど歩けないわけではない。帰省本能と言うのかしら。今度はまっすぐに広尾駅に向かった。
突き付けるように手渡してきた稟議書。あれはあたしの最後のカードだったのに、勢いで啓の手渡してきてしまった。
いえ、いずれどこかのタイミングで渡すつもりではいた。もっと後だと思っていたけれど
思ったより早かっただけ。
啓を巻き込んでしまったのが今回の唯一の敗因。
だけど
多少の誤差があるものの
今の所―――
計算に狂いはない。
まっすぐに前を射貫くように見ていると
「瑠華ちゃん!!」
またも覚えのある声に呼び止められた。
訂正、覚えがある声ではなく、あたしを『瑠華ちゃん』と呼ぶ”男性”はたった一人だ。
ゆっくりと振り返ると、やっぱり葵さんで―――
葵さんはビニール袋を掲げて走ってきた。
「帰って―――なかったんですか…」
もしかしてあたしたちの後をこっそり尾けてきた―――?
目だけを上げると
葵さんは小走りに走り寄ってきて、
「これ」とズイとあたしの前にコンビニ?のレジ袋と思われる中身が入った袋を突きだされた。
「あの?」
益々意味が分からなくて怪訝そうに彼を見上げると
「あ、これね。消毒液と絆創膏と…あとストッキング」
葵さんは慌ててビニール袋の中をがさごそとさせ覗き込む。
消毒液と絆創膏と、ストッキング―――?
「あ………靴…履いてンね」
葵さんはバツが悪そうに額に手を置き、ふいと顏を逸らす。
もしかして―――
あたしたちの後を追ってこなかったのは、あたしが足に怪我をしたとでも思ったのだろうか、ドラッグストアまでこれらのものを買いに行ってくれていたようだ。
さっき『顔を見たくない』と言った、こんな冷たいあたしの為わざわざ―――
あたしはビニール袋を素直に受け取った。
「王子様に靴を履かせてもらった?」
葵さんは顔を背けたままつまらなさそうに呟く。
東京の大通りで、その声は聞き落としそうになってしまったが、何とか聞きとることができた。
「俺が瑠華ちゃんの王子様になりたかったのに」