Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「ごめんなさいね~朝早くから」と綾子さんはにこにこ。
綾子さんは黒いニットと白いロングスカート、イヴサンローランのベージュのバッグと黒いブーツと言うシンプルな格好だったけれど朝から完璧にきれいだった。そのバッグと一緒に下げていた白い紙袋を
「はい」と手渡してきて
「この近くにね~、美味しそうなパン屋さんがあったの。ちょっと列が出来てて調べたらクロワッサンがすごく人気みたいで、朝食にどうかしら」
「そんな…お気遣いいただかなくても…」
とは言ったものの、うちには何もない。個人的に朝食は摂る方ではないけれどおもてなしするときはやはり何かあった方が良かったのかもしれない。
「うっわ~!素敵なお部屋ね~!!」
リビングに通すと綾子さんはキョロキョロと視線を回し、歓声をあげた。
「いえ…大したことは…今日は掃除もしてないし…お恥ずかしながら」
「そんなことないわー、とってもきれいにしてあるじゃない」
綾子さんをこの家にあげるのは初めてで何となく気恥ずかしく
「あの、ハムエッグでも焼きましょうか。それとも茹で卵派ですか?あとサラダとかも…」
慌てて提案すると
「お構いなく。コーヒーだけいただけるかしら」
との言葉を聞いてちょっと安心した。ハムエッグくらいならあたしにも作れるかと思ったけれど、正直自信がない。
結局、コーヒーを淹れてクロワッサンをいただくことに。
料理が苦手だと言うことを素直に白状すると
「あはは!ホントにおかまいなく。私も料理は全然ダメ。裕二も料理はできないからもし結婚したらどうなるか分かんないわ。二人で餓死してたらどうしよう」と綾子さんは両頬を手で覆って顔を青くさせている。
「今はデリバリーと言う手もありますし、何とかやっていけますよ」と言いクロワッサンを口に含むと
綾子さんが言った通りそれはバターが効いていて外はサクサク中はしっとりと美味しかった。
クロワッサンを頬張りながら
「柏木さんのそう言う格好見たの久しぶりだわ」と綾子さんがうふふと意味深に笑う。
急に恥ずかしくなって横の髪で顔を隠す。
「あらー、いいじゃない若くて可愛いんだし」
と綾子さんの言葉で頬がかっと熱くなった気がした。
そのときだった。
TRRRRR…!
ローテーブルに置いたままの携帯が鳴り、ちらりと画面を見ると
着信:心音
となっていてあたしは慌ててスマホに手を伸ばした。
「すみません、電話が」
「どうぞ、どうぞ」と綾子さんが両手を差し出す。あたしは敢えて移動することも隠れることもせず
「Hi」と、ことさら普段通りを装い電話に出た。