Fahrenheit -華氏- Ⅲ

近くのコンビニまで歩いて五分。お手頃価格の赤ワインにチーズやビーフジャーキー、ナッツなんかのおつまみを選び買い終えて、ゆっくりとした足取りでマンションに戻った。


「お帰りなさいませ、柏木様」と相も変わらずウチヤマさんが頭を下げてくれる。


「ごくろうさまです」と会釈を返し、エレベーターホールに続くエントランスの扉をくぐろうとしたそのとき





「瑠華っ!」




聞きなれた声が背後からあたしを呼び、あたしは足を止めて目を開いた。


この声―――


振り向かなくても分かる。






何で―――




啓―――……





聞こえなかったフリで歩を進めようとするともう一度


「瑠華!」と名前を呼ばれた。


一度目は綾子さんは気づかなかったのだろう、二度目の声に「え!」と彼女は目を開いて振り返った。


「啓人!ちょっと何でいるのよ!」と綾子さんが目を吊り上げる。


「瑠華に―――……柏木さんに話したいことがあって……」


柏木さん…随分他人行儀な言い方。


まぁ、他人か。


改めて振り返って啓を見ると、白いシャツにチノパン、足元はスニーカーと言うラフな格好だった。久しぶりに見る啓の私服姿に一瞬ドキリと胸が鳴った。思わず心臓を押さえそうになって何とか思いとどまる。


啓はよっぽど急いできたのか肩で息をして呼吸を荒げている。


そんなに急いで何を話すのだろう。今更話すことなんてないのに。


「私は話したい事などありません」


ふいと顔を逸らし「行きましょう、綾子さん」と促すと


「待って!」と彼が走り寄ってくる気配を感じた。

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