Fahrenheit -華氏- Ⅲ
近づいてくる。
ファーレンハイトの香り。
大好きだったあの香り。
逃れることは―――
できない。
「どうしても話しておきたいことがある」
啓は躊躇なくあたしの腕を掴んだ。強引ではないのに力強さを感じる。
まただ―――
昨夜、葵さんからあたしを引きはがすときのあの手の感触。
手首が―――熱くなる。
あたしと啓との不穏なやり取りに気づいたのかウチヤマさんが心配そうにこちらを窺っていた。
「頼む、大事な話なんだ。今だけ話を聞いてくれ」
今までにない程、啓は懇願に近い緊迫感を漂わせていつになく真剣だった。
ここで揉めるとウチヤマさんにも綾子さんにも迷惑がかかる。
ちょっとの間……そうね、数秒だったかしら悩んだ結果。
「分かりました」
あたしは結局そう答えていた。
あたしは綾子さんに向き合うと
「ごめんなさい、綾子さん。今日は少しだけ席を外していただけませんか」綾子さんに謝ると
「いいけど……本当に大丈夫?」と綾子さんは心配そうに眉を下げる。
「大丈夫です」私も綾子さんに眉を下げて謝った。
――――
――
啓を家に上げるのはどれぐらいぶりだろう。
「どうぞ」
スリッパを出し、勧めたところで話があるといった当人が戸惑ったように玄関の床を見下ろしながら躊躇している様子だ。
「大した話ではないのではお引き取りを。私も暇ではありませんので」
いつも以上にそっけなくなる言葉は、今の二人の関係が微妙どころか最悪だからだ。
「いや!大した事……ある」
啓はぱっと顔をあげると覚悟を決めたように喉を上下させ、靴を脱ぐとスリッパに足を入れた。