Fahrenheit -華氏- Ⅲ

でも―――


啓は、彼のマンションまで瑞野さんが来た、と言っていた。さらには二村さんにも乱入された、と。


そこまで二村さんは切羽詰まっていた、と言うことだろう。


やはり二村さんはあの”偽の”オークションの証拠を彼なりの最終兵器にするつもりだったのだ。


いいえ、そんなことわかりきっている。


問題は何故瑞野さんが啓の元へ行ったのか。何故、そこまでして二村さんに従うのか。


自分が稟議を流した、と言う罪悪感から?それともそれをネタに二村さんに強請られている?


それとも―――……


顔から手を退けるとき、ふと袖のボタンが取れかかっていることに気づいた。


そっか…さっき啓に手を握られたとき―――


そのシャツはどこで買ったのかもう思い出せない。確かNYのショッピングセンターで買った…大して値段も高くなかったけれど、前と後ろを向く、二つの顔を持った古代ローマの神”ヤヌス”のボタンが気に入って買ったんだ。


ヤヌスは、入り口の神。物事のはじまりの神。あたしの誕生日の1月の守護神。


二つの顔は過去と未来の間に立つと言う意味もある。


瑞野さんの過去、瑞野さんの未来―――


彼女が望んでいるのは―――……?


しかし今考えたところでどうしようもない。やはり瑞野さんのSNSを探すのが近道だ。彼女が利用していた、と言う話が前提だが。


気を取り直して、あたしはリビングに戻った。


啓はあたしが出て行ったときと同じ姿でソファに項垂れて座っている。


あたしが戻ってきたことにも気づかなかったのだろうか、ただ床の一点をじっと見つめている。


コホン…


小さく咳払いをすると啓がのろのろと顔を上げた。その顔色はどんよりとくぐもっていた。


あたしが元の場所に座ろうとすると、啓はまるで小さな子供が母親の顔色を窺うように


「怒ってる……?」とおずおずと目を上げた。


その返答にどう答えるか迷った。


黙っているのを肯定とみなされたのか、啓はふぅと大きくため息をついた。


ここになってようやく


「怒ってはいません。終わったことは仕方のないことです」と何故か言い訳がましく口の中で答える。


「それで、あなたはその奪ったSDカードの中身を見ていないのですか、奪ってどうするつもりだったのですか」


啓の話によると啓が奪ったSDカードは二村さん自身の目の前で破壊したそうだ。


啓は目を細かくまばたき少しだけ息を整えるよう小さく咳ばらいをし


「や、破壊したのはダミーで、オリジナルは裕二が持ってる」


麻野さんが―――



何故?


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