Fahrenheit -華氏- Ⅲ
その音にハッと我に返った。
あたしは―――何をしているの。
「お客です、ごめんなさい」あたしはやんわりと啓から手を離し、インターホンモニターに向かおうとした。
「行かないで」
すかさず啓の手があたしの手首を追いかけてくる。
「ですがお客様ですから…」
あたしはまるで聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように困った顔を作ったが、啓はそれ以上に真剣な様子で眉を寄せている。
「頼む。
もう少し―――、一緒に……」
一緒に居てどうするつもりなのか。
”また”軽い関係を望んでいるのなら、まっぴらだ。
あたしはそこまで能天気になれない。
「離してください」
やや強引と思われる仕草で今度こそ啓の手を跳ねのけると、あたしはインターホンモニターに向かった。
モニターに映っていたのは、綾子さんで
『あ、柏木さん?ごめんなさい、忘れ物しちゃったみたいで、取りに行ってもいい?』
との言葉に、少しばかりほっとした。
「忘れ物?ええ、構いませんが」
通話を切り、あたしは啓に何も言わずに玄関に綾子さんを迎え入れる為、向かった。
「瑠華っ…!」
その後を啓が追いかけてくる。
あなたはいつ―――
別れた女に追いすがるほどみっともなくなったのですか。
―――思わずそう言ってしまいそうになった。
けれど言わなかった。言えなかった。
啓の気配を背後に感じながらも、追ってくれる啓に少しばかり嬉しさを覚えながらも、
振り返ってはダメ。
振り返ったら、きっと後戻りはできない。
臆病なあたしは少しの角度で彼を視界に入れられることを知りながらも、少しも顔を動かすことができなかった。