Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「ごめんなさいね~、私ったら忘れ物しちゃって」綾子さんは悪びれた様子もなくにこにこ。
「ええ、構いませんよ」と言いつつ、綾子さんの来訪のタイミングにほっとしていたのだ。
「ところで忘れ物とは…」
あたしが見たところ綾子さんの忘れ物があったようには見えなかったが。
「ああ、それね~」綾子さんは朗らかに笑ったが、次の瞬間顔をしかめて、
「啓人!あんたまだここに居たの!」と声を荒げてあたしの後ろにいる啓を睨みつける。
「話があったんだよ」と啓も声を低めた。
「何の話か分からないけど、もう十五分も経ったのよ、終わったでしょ。行くわよ」と横柄に言って腕を組む。
なるほど。
あたしは目を細めて啓の方を見据えた。
綾子さんの言う”忘れ物”とは啓のことだったんだ。
「何だよ、偉そうに」啓はブツブツ言っていたが、綾子さんが来たことでこれ以上あたしに何かしてくることはなさそうだ。
それにほっと安堵する。
「ごめんなさいね~大きな”忘れ物”が柏木さんに迷惑かけなかったかしら」と綾子さんは頬に手を当てる。
「いえ、彼の言った通り話をしていただけなので…」
あたしの言葉は尻すぼみになった。
手を握られた、と言うのはそれ以上のことなのだろうか。
それ―――以上―――
あたしは頭を軽く振り、
「あたしは大丈夫です」とキッパリと言い切った。
「ほら、早く帰るわよ」と綾子さんが啓を急かす。
「分かってンよ!一々うっせぇなお前は」と啓が渋々と言った感じで靴を履く。
「今日はありがとうございました」
あたしは二人にきっちりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
お二人には、色々と。
大丈夫、
あたしは
―――大丈夫。