Fahrenheit -華氏- Ⅲ
あたしは速足で自部署のあるフロアに向かおうとした。
運が悪いのかこの時間帯出勤している社員は少ない。誰ともすれ違わないし、また誰かがフロアから出てくる気配も感じられなかった。
「待ってよ!」
二村さんの声が追いかけてくる。
立ち止まるのも癪だったからそのまま早歩きでその場をやり過ごそうと思ったが、二村さんはそれより速足で走ってきてあたしの前を通せんぼ。
「もしかして、その三億近く払ったのって部長?こっわいなー柏木さんも。別れ話にオトコにそこまで払わせる?」
ぴくり
あたしのこめかみが細かく震えた。
「生憎ですがお相手は部長ではありません。私は部長と別れても痛くも痒くもないですから」
口から出まかせ、まぁ良く言えたものだこのあたしも。
「そもそも彼にそこまで蓄えはないでしょう」
ごめんなさい、啓。ひどいこと言いました。
でも、あたしがあまり凹んでいない、或いは吹っ切れたという印象を与えられたのか二村さんは面白しくなさそうに眉をしかめた。
けれど立ち直りも早く
「じゃぁさ、俺が見てみたいなー、柏木さんの涙」
と、またもにやりと不敵な笑みを浮かべる。
「そのポーカーフェイス、いつまで持つかな。俺はね、強がってる女を膝まづかせて泣いて縋る姿を見るのが大好きなんだ」
耳元でそっと囁かれてあたしの全身に電流のような怒りがつま先から脳天へ突っ走った。
「Asshole.(この下衆が)」
思わず小声で言うと二村さんには聞こえなかったのか「え?」とわざとらしく耳元に手をやる。
「とんだサディストですね、生憎ですが私にその趣味はありませんので。
さっきも言った通り、あなたに約3億払う気があるのなら考えなくもないですよ。
離してくださる?大声を呼んで人を呼びますよ」
警告すると
「いいけど?この時間帯人はいないよ?」と二村さんは勝ち誇った笑み。
あたしは、ここに来て初めて笑顔を浮かべた。
「ええ、一人を除いては」
「柏木さんに迫って何をしている二村。セクハラの証人になって訴えてやろうか」
啓が二村さんの背後に突っ立って、二村さんの手に手を伸ばした。