Fahrenheit -華氏- Ⅲ
ダメだ…
下を向いていると涙が出そうになる。
あたしはゆっくりと顔を上げ、流れる東京の夜景を眺めながら
「~♪Happy birthday to you…」小さく口ずさんだ。
タクシーの後部座席に備え付けられた小さなテレビモニターではタクシー会社のCMが流れている。あたしの小さな歌声はかき消されるだろう。
「~♪Happy birthday to you. Happy birthday dear――――Kei」
本当は声を大にして歌いたかった。彼の前で、彼だけに聞こえる声で。
「~♪Happy birthday to……」
あたしの歌声は最後まで歌いきることはなく、途中で変な風に途切れた。
頬を冷たい何かが伝い落ちる。
変だな……さっきさした目薬は乾ききってる筈なのに。
なのに何故、
目から零れ落ちるの―――
啓
―――――
――
長いようで短い一日が終わろうとしていた。
家に帰りつくと、すぐにお風呂をため、お気に入りのバスオイルを入れたお風呂を眺めに堪能した。
NYのときから使っていた、街の名もあまり知られていない雑貨屋で購入していたバスオイルは芳醇なローズとほんのりワインを思わせる香りで、日本に来てからもわざわざ取り寄せて使っている。
あまり頻繁に取り寄せられるものでもないから、疲れたときや特別な日にしか使わない。
その湯に浸かりながら、バスタブに設置されたテレビをオーディオ機能に設定して、今はヴィヴァルディの”四季”を流している。
あたしの大好きな部分は『冬』
まさに『冬』に入ろうとしていたそのとき、首がかくりと傾いた。
バシャン…
湯が跳ねる小さな音を聞いて、慌てて顔を戻す。
いけない―――いつの間にかうとうとしていたようだ。
だめだめ。お風呂で溺れ死するなんて、みっともないし、そもそも
今くたばってはダメ。
気を入れなおすつもりで両手を組んで腕を伸ばし軽く伸びをする。
今日の―――二村さんへあたしたちの不仲を確認させる作戦はうまくいった。
けれど、それだけじゃ足りない。
”偽”のオークション、緑川さんの妊娠、あたしと啓の不仲―――
ダメだ……
まだまだカードが足らなさすぎる。
もっと……
もっと強力で手っ取り早い方法がないのか。