Fahrenheit -華氏- Ⅲ
―――とは言ったものの、休憩時間半分以上残ってるし。
別に、今までだったら残った休憩時間を仕事に当てられるとさえ思っていたのに、“あの場所”に戻るのが今は辛い。
どうしよう…
またお手洗い…?で30分以上潰すわけにはいかない。
気のりしないが、どこか外へ出て近くのカフェにでも行こうかな。
そう思って1Fに降り立つと、受付カウンターの受付嬢が、慌てて電話を切りながら
「柏木補佐、お客様がお見えになっています」と慌てていた。
「客?」目を細めると
「あちらです、村木様です」と受付嬢が手で促し、
村木―――さん……?さっき話したばかりなのに、でも客って…?
訝し気に目を細めながら受付嬢の手の先を見て
梨々花さん―――
あたしは薄手のトレンチコート姿の村木さんのお嬢様を見て、目を開いた。
「すみません、突然押しかけることをして」と梨々花さんは深々と頭を下げる。
「いえ。あの……村木さ…村木部長ならたぶんお席にいらっしゃるかと…」
「いえ、今日は父に会いに来たんじゃないの。あなたに―――お借りしていたものを返しに」
梨々花さんはそう言いながら少し大きめのトートバッグから小さな紙袋を取り出す。
手渡されたその紙袋の中身を見ると、以前梨々花さんに貸したハンカチが出てきた。
「わざわざこれを届けに?今日お仕事は―――」
「ちょっとおつかい頼まれたから、そのついでで…って言い方悪いけれど」と梨々花さんは悪戯っ子のようにちらっと舌を出す。
「いえ、ありがとうございます」
「お礼を言うのはこっちよ、父を説得してくれたみたいで、
ありがとうございました、って一言言いたくて」
「説得―――……」
「あの後、父とは口も利かずの冷戦状態だったのだけれど、一週間前ぐらいかな、話し掛けてきて…彼ともう一度ちゃんと食事がしたいって…」
さっき、村木さんから聞いた―――あれは本当のことだったのね。
「『どういう風の吹き回し』かと思ったし何か企んでるのかと思ったけれど、父は柏木さんに説得…と言うかあなたが父に何を言ったのか分からないですけど、それで考えを改めたみたいで」
あたしの言葉が―――
「あの頑固者の父をどう説得させたのか教えを乞いたいぐらい」梨々花さんは苦笑い。
「いえ……私は何も…」
ただ経験談を言っただけで。
「理由がどうであれ、
ありがとう、それを言いたかったの。
あなたは私と父がどんな関係か知らなくてもお手洗いで優しくしてくれた。それが嬉しくて、心から
ありがとう、って一言」
梨々花さんは深く腰を折って頭を下げる。
「いえ、私はそれ程大したこともしてないので」と慌てると
「でも、あの頑固者の父を動かせるって凄いことだわ。
柏木さんには
きっと人を動かせる強い力があるのね」
梨々花さんは穏やかな表情で微笑んだ。
人を動かせる―――
強い力
あたしには、まだ残っているのだろうか。
その“力”と言うものが。
あたしはぎゅっと手渡されたハンカチを握った。