Fahrenheit -華氏- Ⅲ
お手洗いはどの個室も空いていて、幸いに人は誰も居なかった。
「すみません、強引に」と緑川さんから最初に謝られてちょっと面食らった。
「いえ、ここなら二村さんの目も届かないだろうし安心です。話したいことがあったんでしょう?私に」
緑川さんはもじもじと手を組み合わせると
「はい……あの、葉月妊娠二か月目って設定だけど、ホントは妊娠なんてしてないし……いずれバレるかなって…」
「そうですね、お腹が出てくるのは個人差がありますが、そのままの姿は後三か月しか通用しないでしょう」
「そう……ですよね……どうしたら…」
大丈夫―――三か月後には株主総会がある。それまで誤魔化せれば。
「とりあえず、お腹が出てこないのは体質だと誤魔化してください。先生にもそう言われた、と」
「それで通用するのかな……最近、二村くんやたらと優しいって言うかちょっと過剰なぐらいに葉月の体を気にかけてくれて……刺身を食べようとしたら、すっごい剣幕で怒られて。気遣ってくれたと思ったら急に怒り出したり、何考えてるか分かんない」緑川さんは眉を寄せて腕を組んだ。
「まぁ、妊婦さんに生ものはNGですからね」
「え…!そうなんですか?だから二村くん怒ったのか~
て言うか柏木補佐詳しいですね」緑川さんがぱっと顔を上げる。
「詳しいと言うか……”友人”がそうでしたので」
あたしはわざと”友人”と言う所を強調した。あたしも妊娠した当初はまだ若くて無知だったのもある。パパがお祝いしてくれたとき、わざわざ日本料理屋さんでお魚をさばいてもらって盛り合わせを取り寄せてくれた。それを知ったママがやはり激怒とまではいかないまでも怒ったのだ。
「あとはチーズとか、勿論カフェインも。まぁ緑川さんは実際妊娠していないので、二村さんの前で摂取しなければいいだけの話で」
「勉強になります。やっぱり柏木補佐に相談してよかった~」緑川さんは大げさにため息を吐いた。
あたしは鏡越しにその様子をちらりと見て、
「本当はもっと違う話がしたかったのでしょう?」と聞くと、緑川さんのきれいにマスカラで縁取られた目がぱちぱちと大きく動いた。