Fahrenheit -華氏- Ⅲ
わ、ヤベ!
と思ったが時すでに遅し。
瑞野さんは慌てて両手で口を塞ぎ、こちらに背を向けていた二村がゆっくりとこちらを振り返った。二村はちょっと目を見開き
「また盗み聞きですか?あなたも趣味が悪いですね」と顔を歪ませる。
「盗み聞きなんてしようと思ってしたわけじゃねぇよ。ここは会社だ。痴話喧嘩なら外でやりな」開き直って腕を組むと
「ちっ」と二村は小さく舌打ちして、瑞野さんから離れるとドンっとわざと派手に俺にぶつかり俺の横をすり抜けていった。
な……!んだよ、あいつは!!
二村の立ち去っていった方を忌々し気に眺めていると
「ごめんなさい……二村くんが失礼な態度を…」と何故か瑞野さんが謝ってきた。
「いや、あいつがしつれーなことは今に始まったわけじゃないし」
しかし二村、最近余裕がないな。あいつの中でどこかで何かの歯車がずれてきている、そんな感じに思えた。
『こんな筈じゃなかった』あいつの心の声が聞こえてきそうだったが、人の気持ちを100%コントロールすることなんて最初から無理なんだよ。でもこれってチャンスじゃね?瑞野さんと二村が仲互いしてくれるのは好都合だ。
「こっちこそ、立ち聞きみたいなことして悪かったね」と一応瑞野さんに謝った。瑞野さんは気を悪くしているようには見えなかったが目の端に少しだけ涙が浮かんでいてちょっとぎょっとした。
二人で一体何の話をしていたのか気になる。
「何かあった?あいつに苛められた?」とおずおずと聞くと、瑞野さんは俺を見つめながら眉を寄せゆるゆると首を横に振る。
「そっか、それなら良かっ――――」”た”と言いきらないうちに瑞野さんは俺の腕を引き、非常口のベランダへと招き入れた。
パタン、と鉄の扉が閉まる音が背後で聞こえた。
へ―――?
予想もしてなかったことに、俺は自分でも呆れるぐらいあっけなく瑞野さんと距離を縮め、それほど勢いをつけていないのに瑞野さんはふわりと俺に体を傾けてきた。
「もうヤダ。二村くんに振り回されるのは」
俺の胸の中で呟いた言葉は風の音にさらわれそうな程小さかったが、俺の耳にはしっかりと届いた。