Fahrenheit -華氏- Ⅲ
だが、黙って引き下がるつもりなんて最初からないんだよ。
「瑞野さんは有能な秘書だろ?それを親父がみすみす手放すなんてあり得ない」
「私に会長のご意向なんて分からないわよ。私たちはただ黙って会長の意見に頷くだけ」
うんざりしたように綾子は額に手を当てた。
しかしその手を払うと、濃いめの赤いリップが乗った唇ににやりと笑みを浮かべ
「もしかして稟議の横流しがバレたのかもね。会長は私にそんなこと言わなかったけれど、気づいたかも」
と不敵に笑った。
確かに、瑞野さんは稟議の横流しをしていた。
けれどそれならばわざわざ”出向”なんて形を取らずともどこいらへの支店に飛ばすだろう。それが親父のやり方だ。
俺は深く息をついて腕を組んだ。
稟議の横流しが親父にバレたから―――理由はそれじゃない。
「なぁ綾子。俺たち同盟を組んだ筈だろ?今更裏切るってわけか?」
「同盟?確かにあんたの話に乗ったけれど、今回の瑞野さんの異動はあくまで会長のご意向。私は理由を知らない」綾子は一層冷たく言って「しつこい」と言いたそうに目を吊り上げた。
くそ、あくまで口を割らないつもりなのか。
瑞野さんの”出向”には必ず理由があるってのに。
綾子が口を割らなければここに居ても時間の無駄だ。
「分かった。今回は受け入れる。だけど俺に秘密は作るな?
大袈裟かもしれないが、一つ一つ何か絶対理由がある。それが未来の会社にとってよくない結果になっても、俺を恨むなよ」
俺が綾子を指さし低く言うと、綾子は見ていた書類をバサっと大きな音を立て投げだし、赤い唇を歪め至極真剣に言い放った。
「それはこっちの台詞よ。女を甘く見ると痛い目に合うわよ。啓人。これは忠告、瑞野さんの出向の件に関してこれ以上詮索しないことね」
綾子―――やっぱり何か知ってるな。