Fahrenheit -華氏- Ⅲ
自部署に戻る前、俺はトイレに立ち寄ることにした。8Fフロアの男子トイレを開けようとしたとき、中からガンっ!と何かを叩くか蹴るか、の音が聞こえて扉においた手に一瞬力が入った。
何だぁ?
中を窺うようにそぉっと扉を開け顔だけを覗かせると、洗面台の上で両手を広く開けてついていた二村を見て俺は唇を引き結んだ。
「何でみゆきが外資に……神流部長の差し金か…それとも柏木―――」
おい、俺の差し金でもないし瑠華を呼び捨てすな!と怒り出したかったが、それを何とか抑え込んだ。
二村の横顔に余裕は微塵も感じられなかった。焦燥と怒りに顔を歪ませ、目の前にある鏡を叩き割りそうな勢いだ。
「これじゃ迂闊にみゆきに近づけない……どうしたら…」二村は親指の爪を噛んでギリギリと歯ぎしりしている。
ふっ、いいざまだ。
俺だって瑞野さんの出向の本当の理由なんて知らないが、二村には相当なダメージときている。
これで二村もしばらくはちょっかいかけてこないだろう。
しかし常務の息子である二村にも瑞野さんの出向の理由が分からないって言うことは、俺の親父の一存。それに綾子が加担している?
二村は常務の息子だと言うこと、それはそれなりに大きな切り札と取ってあるようだが、俺の親父の会長は―――それ以上に大きな存在であり壁である。その壁を打ち破れないと言うことは、常務の息子であると言う事実は今はまだ問題視するべき点ではないのだろうか。
それが瑠華の作戦??いやいや、二村が常務の息子だってこと瑠華だって知らない筈だ。知っていたとしても、それだったら猶更もっと早くそうしていただろう。理由はきっと他にある筈。しかも緊急を要する理由に違いない。
俺はトイレを諦め、自部署に戻ると佐々木が一人電話対応にあくせくしていた。
「I will ask again.(もう一度お願いします)」不慣れな英語で身振り手振りあたふたとしている。
運が悪いことに海外からの電話を受けちまったようだ。
佐々木は戻ってきた俺を見ると、今にも泣きだしそうな目で訴えてきて俺を見る。
仕方ない、変わるか。と思いで席に着くと
「変わってください、私が対応します」と瑠華たちも戻ってきて、瑠華は無表情のまま佐々木を見た。佐々木は天の助けと言わんばかりに電話を保留にした。
瑠華はそのまま電話に出ると滑らかな英語で受け答えをしながら手元のメモ帳に何かを書きつけている。
戻ったばかりの瑞野さんはランチバッグを鞄に仕舞い入れながら
「凄いですね、柏木補佐」と瑞野さんが大きな目をぱちぱち。
「瑞野さんも秘書室に居たから英語は喋られるんじゃないですか?」と佐々木が聞いていて
「いえ、あたしはちょこっとだけ、あそこまで流暢には喋られませんよ」と瑞野さんは苦笑い。
「かっこいい……なぁ、柏木さん」
瑞野さんの視線は決して敵意の籠ったものではなく、羨望に近いもので、少なくとも瑞野さんは瑠華に対して敵対心を持っているわけじゃなさそうだ、と改めて感じた。