Fahrenheit -華氏- Ⅲ

「お疲れ様で~す」と間延びした声はいつも通りだったけれど、少しだけ棘のある目で緑川さんはマナミさんを見ると睨まれたと思ったのかマナミさんは化粧道具を慌ててポーチに入れると


「柏木補佐、お話聞いてくださってありがとうございました」と、慌てて出て行ってしまった。


「話?何の話してたんですか?」と緑川さんがアヒルのように口を尖らせる。


「ちょっとプライベートのことを…」


「プライベートぉ?あたしだって柏木補佐とプライベートな話あるもん」とまるで子供の嫉妬のように口を尖らせ、


緑川さんと最初会ったときは凄く敵視されたけれど、この変わり身。思わず苦笑が漏れる。あたしの腕に腕を絡ませてくる。まるで子供が大事にしているおもちゃを取られたかのような扱い。


あたしはコーヒーを飲んだりタバコを吸ったりして落ちてしまったリップだけを直そうとしたが


「ねぇ柏木補佐ぁ、瑞野さんの出向何か理由があるんですかぁ?」と隣でファンデーションのパフを肌にはたいていた緑川さんに聞かれ、唇の途中で変な風にリップが止まった。


「理由?何故そんなことを聞きたがるんですか?」


「だって変じゃないですかぁ。辞令の下る月じゃないし急に出向だなんて」


「そうですね、そう思われても仕方ありませんね。ただの人手不足で私が頼み込んだんですよ、会長に」再びリップを塗る手を進めると


「え!柏木さんが!?てっきりあたし瑞野さんが強引にしゃしゃり出てきたかと思った~」


「彼女にそんな権限ないですよ」思わず苦笑すると


「でもいいんですかぁ?瑞野さん部長のこと狙ってるっぽいし」


「そうですか?私にはそうは見えませんけど」


「ホントは別の理由があるんじゃないですかぁ?」


鋭いとこつくわね。でも言えない。瑞野さんが妊娠してる、なんて。しかも相手は二村さんだ。


それを知ったら緑川さんの気持ちは完全に二村さんから離れていくだろう。しかし瑞野さんとて二村さんのやり方に不満を抱き気持ちすら疑いはじめている。そんな中で強引に三人の仲を壊すわけにはいかない。何より壊された側の二村さんがどう出るか分からない。


今は順調に緑川さんと結婚できると信用している二村さんの気持ちを利用させてもらう。

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