Fahrenheit -華氏- Ⅲ
緑川さんはしゅんと項垂れて
「まだ……貰ってません」と正直に答えてくれた。
「では指輪を買ってもらったら紹介する、と言えばどうでしょう。プラチナ素材の指輪は出来上がりに最低二か月は要します。それまで時間稼ぎができると思いますし、何より緑川副社長に紹介するとき信憑性が増します」
緑川さんがゆっくりと顔を上げた。マスカラできれいにコーティングされた睫毛を上下させ
「そっか……」と小さく頷いた。
「この際だから思いっきり高い婚約指輪をおねだりしたらどうですか?すべてが終わって返せって言われてもそれなりの値で売れれるはず」ニヤリと笑うと、緑川さんは引きつった笑みを浮かべ
「さ、流石ですね」と一歩引いた。
と言うわけで緑川さんとの会話も終え、あたしは帰り支度をする為自部署に戻った。
部署に戻ると、啓の姿は無かった。どこか他部署に呼び出されか喫煙か。
「柏木さん、今日どっか行くんですか?」と佐々木さんに指摘され
「ええ、ちょっと友達とディナーに」と嘘をついた。葵さんは友達でも何でもない。
「そうですか……友達と…」佐々木さんは口の中で復唱する。
啓の姿がないから帰るのも気が引けるが、約束の時間も迫ってきている。コートを手に取ると
「あれ、柏木さんもう帰るの?」と背後で啓の声が聞こえてきた。
「あ、はい。今日はお先に失礼します」
「………うん、気を付けてね。お疲れさん」
啓は――――理由を聞いてこなかった。
聞かれたら佐々木さんに言った同じ言い訳をするつもりだったけれど。
あたしにもう興味が無くなったのかな。あたしは卑怯だ。色々詮索されると面倒だと思っていたけれど、無関心になられるのはもっと辛い。
それを考えると、チクりと胸が痛んだ。
あたしって欲張りで卑怯者で、こんなんじゃ啓に呆れられても仕方ない。
そんなことを考えていると同じように帰り支度をしていた瑞野さんと目があった。瑞野さんのように素直になれたのなら―――瑞野さんのように可愛くなれたのなら。
その考えを打ち払うようにあたしはまるで逃げるようにその場を立ち去った。