Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「え!キス!」葵さんは大きな目をまばたいて驚いているようだった。
『”けい”じゃないよ。
今日だけは―――許して―――
瑠華ちゃん、
好き』
この様子を見ているとやはり前回タクシーの中で聞いた葵さんの言葉は夢だったのだ。あたしは口紅が落ちない程度にそっと唇をなぞった。
良かった―――あたし、葵さんとキスしてない―――?
大体、葵さんがあたしのことを好きなんてことありえない。こんな冷たくてそっけなくて可愛げのない女。まぁ彼の周りでは居ないタイプだから面白がっているフシはあるだろうけれど。あとは金づるとしか考えてないだろう。
「俺、意外と口紅の味好きよ?キスする?する?」と葵さんの顔が唇を尖らせて「んー」と言った感じで近づいてきた。
「しません、離れてください」とあたしが葵さんの胸を押すと葵さんはあっさりと体を戻した。
「もー、瑠華ちゃんはお堅いなぁ。アメリカじゃチューは挨拶みたいなもんだろ?」
…………
それ、どっかで聞いた台詞。
あ、そっか啓も勘違いしてたっけね。
「しませんよ、唇には」呆れたように言うと「えー、そうなの??」と葵さんは大げさに驚いた。
「そうです。それよりそれらしいお店を探してディナーしましょう。上げるんでしょうSNSに」と提案すると
「うん♪腹も減って来たしね~」と葵さんはすぐに体制を変える。この変わり身の早さ。まるで子猫の様だ。しかもかなり人懐っこい猫。
あたしたちは手近にあったカフェダイニングに入ることになった。
予約もしていなかったのに入れたのはラッキーだ。
店に入ると茶色を基調とするウッディなテーブルや椅子、吹き抜けの高い天井には白い梁が走っていて大きなシーリングファンがゆっくりと回っている。僅かにトーンダウンした店内にはオシャレにキャンドルが配置されていた。奥には白いクリスマスツリーに赤いボールの…まるでリンゴのようなオーナメントがいくつかぶら下がっていて、店内もやはりゆったりとしたクリスマスソングが流れていた。
ロケーション的にはなかなか良い。
時季が時季なだけあってカップルの存在が目立って、あたしたちは店員さんに案内されるままテーブル席へと移動していった。
そのときだった。
「あれ?柏木補佐?」
女性の声に呼び止められ、あたしはゆっくりと振り返った。