Fahrenheit -華氏- Ⅲ
「違う!」
俺はやや乱暴な手つきで瑠華の両肩を掴むと、彼女をこちらに向かせた。まだ戻しきってないファイルが俺たちの足元にバサリと落ちた。瑠華が目を開いて長い睫毛を上下させ目をまばたく。
「忘れて―――ほしくなんてない。でも君は―――?なかったことにしたい?」
まるで小さな子供が母親に許しを乞うように眉を寄せると
「なかったことに――――」
と彼女の淡い唇が開いた。ゆっくりと俺の頭が沈むのが分かった。
「―――なんて、私もできないし、したくありません」
瑠華―――
やっぱり―――俺たち、あの一瞬だけでも心が繋がったんだね。
「自分の行動が軽率だったことは認めます。申し訳ございません。瑞野さんに見られたこと―――、今日半日彼女はそのことについて私に何も言ってきませんでしたが、部……啓はあの後瑞野さんと二人きりになったでしょう?何か言われませんでしたか」
瑠華の目は真剣そのものだった。
「キスのことは―――二村に報告するようなことはしないらしい」
俺が言うと瑠華はほぅっと息を吐いて胸に手を当てた。
「だが、あの子は俺たちが想う程可愛い女じゃない。ふわふわしてっけど、腹の奥で何を考えてるのか分からない。瑠華も気を付けて」
俺が至極真剣に忠告すると、瑠華はまたも目をまばたいた。
「どういう意味―――……」と瑠華が聞いてきたときだった。
「おっも!資料運びって何でこんな重いんだろうね、男がやる仕事じゃない?」
「ホント、ホントうちら事務職を毎回こきつかってさ~営業職ってあたしたち舐めてない?」と
誰だか分からないが女子社員が二人ぐらい入ってきて、俺は思わず瑠華の口元を手で塞ぐと彼女の腕をとって棚と棚の隙間に入り込んだ。だいぶ奥まってるから気付かれはしないだろうが……
俺が少し乱暴な手つきで引っ張ったからからかな、瑠華はちょっとよろけた。白いワイドパンツからパンプスまでの短い距離ちらりと湿布が見えた。瑠華……もしかしてやっぱ足を捻ったんじゃ……
「もー、ここまで運んだから後は後輩に任せよ」とやる気のない二人組は段ボールだけおいて資料室から出ていった。
パタンと資料室の扉がしまったのを確認して二人して「ほぅ」と息をついた。
咄嗟のこととは言え、瑠華を抱きしめる形で身を潜めている俺。昨日よりもずっと近くに距離を感じた。瑠華は今日は髪をゆるめのアップにしている。白いうなじがや耳の裏がすぐそこにある。体温や香り、息遣い。その全部が愛おしくて―――離したくない。
「足……大丈夫?」このまま離したくなくて何とか会話を繋いででも一緒に居たい……
「ええ、軽い捻挫ですので」
思わず瑠華の両肩に回していた手にきゅっと力を入れると瑠華は困ったような顔で俺を見上げてきた。
ダメだ……これ以上くっついていたら瑠華を困らせるだけだ。
それにさっき入ってきた事務職の女たちは残りを後輩にさせる、と言っていた。いつ人が入って来るか分からない。