Fahrenheit -華氏- Ⅲ
そう言えば、渦中の瑞野さんの姿が見えない。
「あれ?瑞野さんは?今日遅刻?俺、何も聞いてないけど」
瑠華は小さくため息をつき
「何で今頃気づくんですか。今朝私が電話で病院に寄ってから向かいます、と報告を受けました。少し出血があったようで」
「え?そーなの?ってかそれって大丈夫なの?」俺は不安そうに聞くと
「妊娠初期にはよくあることです、痛みもないようですし恐らく大丈夫かと」
「そっか~無事ならいいんだけど……」
「部長が瑞野さんの心配ですか」瑠華が書類をまとめる手を止めてちょっと興味深そうに目を細め俺を見てくる。その視線に嫉妬が混ざっていたのならちょっと嬉しいのに、と不謹慎なことを考えてしまう俺、ダメダメだよな。
「そ、そりゃ心配だよ。彼女には色々振り回されたけどお腹の中の赤ん坊に罪はない」
「そう、ですね」
瑠華はちょっと深めの赤っぽい口紅が乗った口に淡い笑みを浮かべた。
瑠華が笑った。
やっぱ俺―――瑠華には笑ってて欲しい。できればずっと。
――――
――
就業時間が二時間程経ってから瑞野さんは会社に来た。
黒いニットのワンピースに白いコート、マフラーに手袋。寒さ対策だろうな。妊婦に冷えは良くない。
「すみませんでした」と瑞野さんは律儀に頭を下げる。
その顔にそっと近づいて
「さっき柏木さんから聞いたけど、体大丈夫だった?」と聞くと
「はい、特に異常もなかったみたいで安心しました」と瑞野さんはほんのり笑う。
俺もほっ。そりゃよかった。
「瑞野さん、風邪でも引いちゃったんですか?」と何も知らない佐々木が瑞野さんに聞いている。
「まぁ、そんな所です」と瑞野さんは苦笑。
瑞野さんの答えを聞いた佐々木は俺に視線が刺してきて
『んだよ』と視線で返すと、佐々木は慌てて視線を外した。
まさか俺が瑞野さんを狙ってると思ってる?
ないない。
ぜってぇーない!
と素振りでわざとそっけない顔を作り仕事をしながらようやく俺の昼休みの時間に入った。
そろそろ飯でも……と思っていると
「啓~人くん♪」
気色悪い声を出して裕二が顔を出した。