Fahrenheit -華氏- Ⅲ
午後になって資料が足りないことに気付いた俺は、資料室に向かった。その時瑠華の席に彼女の姿はなかったが、きっと一服しに行ったかトイレだろう、と深く考えずに資料室に向かったが
資料室の手前の棚で、瑠華が背伸びをしながら手を上げていて、高い場所のファイルを取ろうとしていた。
運命の神様はどこまでも意地悪だ。
その資料は半ば傾いていて、あと数回指を引っかければ取れる、と言う感じに見えた。
瑠華は俺に背を向けていて、俺の存在に気付いていない。
ここでスルー(見なかったことにして資料室を出ることに)しても良かったが、いつまでもこんな風に逃げてちゃ進むものも進めない。
「あ、お疲れ…」俺が瑠華の背中に問いかけると、瑠華が振り向いた。
その瞬間、タイミングが悪く分厚いファイルが傾いて滑り落ちてくる。
「危ない!」俺が言うと同時、俺は瑠華の腕を強く引いた。殆ど条件反射だ。
瑠華を抱きしめるように、守るようにして、ファイルは俺の頭を直撃してバサリと落ちる。
「……ぃってぇ…」
思わず頭を押さえると
「け……部長!大丈夫ですか!」と瑠華が目を開いて見上げていて
「だ、大丈夫……」涙目になりながら何とか答える。「俺が急に声を掛けたから」
「いえ……それより大丈夫ですか?」瑠華は眉を寄せる。
さっき…一瞬『啓』って呼んでくれた……?
「大丈夫、大丈夫ちょっとたんこぶが出来たぐらいだろう。それより瑠……柏木さんに怪我がなくて良かった」
へらっとわざとチャラく笑って見せたが、瑠華は真剣そうに俺の頭ら辺に視線を向けている。
俺は落ちたファイルを取り上げ
「はい」と手渡した。
「ありがとうございます」
と言いながら、瑠華はファイルを捲ると
「違った……この年度のファイルじゃなかったです……きっとその隣の…」
「え?」
瑠華はまたも背伸びをしようとしたが、今度は俺が瑠華のすぐ背後から手を伸ばし目当てのファイルをスッと取った。
思いがけず近づいた距離に、ふいにドキリと心臓が鳴る。
瑠華のふわりと凝った編み込みをして一つにまとめてある髪から嗅ぎ慣れたみずみずしいシャンプーの香りが漂ってきた。
……いい香り。
としみじみ思ってる場合じゃない。この態勢は流石にマズイ。密着し過ぎだ。
俺は早々に瑠華からちょっとだけ体を離し、そのファイルを彼女に手渡した。
「ありがとうございます…」瑠華は控えめに返事をした。改めて振り返えって思わず向き合う形になった俺たち。
瑠華の今日の格好は黒に近い深いネイビー色のワンピース、首元に上品なボウタイ、長袖はシアー感があって、ギリギリ腕のタトゥーが見えるか見えないかぐらいの透け感。タイトなシルエットのスカートの裾部分はこれまた上品な具合のスリットが入っている。
髪をまとめているからか、大きめのゴールドのシンプルなピアスが映えていた。
打ち合わせ―――と言うスタイルではない。
アフターファイブにどこかで出かける、と言った感じに見える。
誰だろう…
新しいオトコ?
瑠華に限って俺と別れてすぐ別のオトコと言うことはないだろうが。
それでも―――気になる。