パーフェクト・ネイル ~憧れの上司に狙われている、かもしれません~

 うぅ、と情けない声を発しながら、隣に誰もいない座席シートの上を後退る。

「ところで、初野」

 するとにこにこ笑顔を浮かべたままの遠坂が、ふと椛でも自分でもない方向を――開いた電車のドアを親指で指し示した。

「お前、ここで降りるんじゃないのか?」
「!?」

 にやりと問いかけられて、はっと我に返る。慌てて視線を巡らせてみると、いつの間にか電車は次の駅に到着しており、出入り口の扉も開いていた。動揺のあまり、電車が止まったことにすら気づいていなかったらしい。

「あ、俺の家まで来るか?」
「行きませんっ!」

 さらにとんでもない誘いを受け、思わず大きな声を発してしまう。

 椛の声に驚いたサラリーマンが向かいの横掛け座席で顔を上げる様子を視界の端に捉えたが、構ってなどいられない。

 ビールを一、二杯だったが、案外遠坂も酔っているのかもしれない。

 彼自身も自覚しているようだが、本来遠坂は、部下や後輩に対して誤解を招くような言動をとるタイプではない。仕事そのものはもちろん、上司とも部下とも上手に付き合い、トラブルの対処をすることはあってもトラブルを招くようなことは絶対にない。そんな世渡り上手の彼が、チームの部下である椛を不埒に誘うはずがない。

 ということは、見かけ以上に酔っているのだろう。
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