浮気相手(ヒロイン)の攻略ノートが杜撰すぎて、元敏腕秘書は全力で添削することにした

【本編】



 伯爵令嬢クラリス・リトラーには前世の記憶がある。

 とはいえ覚えているのは、この世界より遥かに発展した日本という国で秘書として働いていたことくらいだ。


 かつての彼女にとって、仕事は生きがいそのものだった。

 学生時代から語学や歴史を学び、外交官を目指して努力した日々は、何物にも代えがたく充実していた。結局、外交官になる夢は叶わなかったが、積み上げてきた知識を活かせる秘書の仕事も気に入っていて、会社へ向かう足取りは、毎日期待と喜びに満ち溢れていた。


 王国でも指折りの歴史を持つ、リトラー伯爵家の長女となった今のクラリスにとって、そんな前世の記憶は寝る前に時折思い出す、夢物語のひとつに過ぎなかった。

 この国で貴族女性が職に就くのは、嫁ぎ先のない末娘がやむを得ず選ぶ、妥協の道でしかない。女性たちは然るべき家に嫁ぎ、夫を支えることこそが最も輝かしい人生だと信じられている。



 我が家では、弟が家門を継ぐことが決まっている。だが、まだ5歳と幼いが故に、彼が成人して一人前になるまでの間は、クラリスが婿を取って家族を支える予定だ。

 その運命に疑問を抱いたことはない。けれど、前世の記憶がふと頭を掠めるたびに、全力で好きな仕事に打ち込む自分の姿を密かに妄想してしまうのだった。





 十五歳から三年間、国内貴族や一部の平民が通う王立学園は、放課後も学園内に残り活動する生徒が多い。勉強するにしても、交友関係を広げるにしても、訓練に励むにしても、ここより整った環境はないからだ。

 併設されたカフェテリアでは令嬢たちが話に花を咲かせ、訓練場からは金属のぶつかり合う音と令息たちの荒々しい掛け声が喧々と渦巻いている。



 クラリスはその賑わいを横目に、教室へと続く廊下をひとり歩いていた。

 肩をわずかに過ぎたあたりで切り揃えられたブラウンのストレートヘアと、髪と同系統の褐色の瞳。身長もこの国の子女の平均ほどで、制服を着たら完全に周囲に溶け込んでしまう。人気のない方へと足を進めるクラリスを気に留める人はいない。


 教室に人影はなく、がらんとしていた。午後の光が斜めに差し込み、整然と並んだ机に長い影を落としている。室内に入って扉を閉めると、まるで水底から聞いているかのように外の喧騒がすっと遠のいた。

 クラリスは、早足で自分の席へと歩を進める。そして机の中から目当ての教科書を取り出し、知らず知らずのうちに小さく吐息をこぼした。

(――忘れ物を取りにきただけとはいえ、誰もいない教室で探しものをしていると、何だか悪いことをしている気分になるわね)

 誰もいない教室の静寂を測るかのように、時計の秒針が無機質な音を響かせている。クラリスは教科書を壊れ物のように胸元へ抱き寄せ、急いで教室を出ようとした。


 だが、その歩みが不意に止まる。

 視界の端、机の脚の影に一冊のノートがひっそりと横たわっているのに気付いてしまったから。わずかな躊躇いののち、吸い寄せられるように膝を折り、その落とし物へと細い指を伸ばす。

 よく使いこまれて角が丸くなった青色のノートは、表紙にも裏表紙にも何も書かれていない。一見しただけでは、誰のノートなのか判別できない。


「勝手にごめんなさいね」

 床に戻すのも忍びなく、持ち主に無作法を詫び、ノートの端にそっと指先を添えてページを捲る。


 だが次の瞬間、後ろめたい気持ちは一息に消し飛び、クラリスの泰然とした表情が凍りついた。

「え、字が汚い」

 あまりの惨状に、引き攣った頬が戻らない。

 丸っこい癖字は、急いで書いたとしても限度が過ぎている。ぐちゃぐちゃと文字が重なり筆記体の悪い見本のようなそれは、現代の活字体に慣れた目には恐ろしい滅びの呪文のよう。丁寧に書き取りを練習している五歳の弟の方が、よほど読み取りやすく大人びた文字を書ける。


 だが、本当の衝撃が彼女を襲ったのは、その内容だった。

〈○○先輩の攻略計画〉

〈△△で待ち伏せする〉

 ノートに書かれていたのは、1週間のスケジュールと学園に通う令息の情報が書かれたメモ。スケジュールは分刻みで、各地を飛び回り寝る暇もない大企業の社長も顔負けの詰め込み具合だ。


 眉間に深い皺を寄せ、半ば解読を諦めかけたそのとき、見慣れた名前がパッと目に飛び込んできた。

〈ルードヴィク様をお誘いし、城下町で遊ぶ〉

 私の婚約者、ルードヴィク・クロウ。クロウ伯爵家の次男で、私の幼い弟が家を継ぐまでの保険として、我が家に婿入りすることが決まっている人。


「ルードヴィク様の攻略計画、なになに……プレイボーイで来るものは拒まない。誘えば、絶対にOKしてくれる。自分を立てて甘えてくれるタイプの積極的な女の子が大好き……」

「政略結婚で、愛のない真面目でお堅い婚約者に嫌気がさしている。婚約者は、本当は騎士になりたいルードヴィク様を冷たく見下しているタイプの悪役令嬢……」


 心臓のあたりにチクッと針で刺されたような痛みが走ったのは、書かれた悪役令嬢の記述に心当たりがあったから。騎士になりたいルードヴィクを見下しているつもりはないけれど、クラリスとルードヴィクの関係があまり良いものではないことは確かだ。



 婚約者の名前をみつけて、もはや見てみぬふりはできなくなった。

 他人の私物を盗み見ている後ろめたさは脇に置いて、一字一句を零さぬよう、隅から隅まで食い入るように文字を追う。

 そこには現宰相の嫡男のカイン・フロスト様、騎士団長のご子息のラッセル・スタルワート様。恐ろしいことに、国内貴族の最高位の家門である公爵令嬢と婚約している王太子殿下のお名前まで書かれていた。


「……あ、またスペルが間違ってる」

 令息たちの情報は、どうやってそんな情報を知ったの!?というマニアックなネタがある一方で、大部分は誰しもが知っているような内容だ。

 普段はどこで過ごしているのか。誰と一緒にいるのか。どの派閥に属しているか。特技は何で卒業後の進路の予定。学園の生徒なら社会常識として理解しておく必要がある。

(――私は、自分の婚約者の話を知らなかったけどね)



 それなりに相手の性格や好みは調べられているものの、肝心の計画があまりにお粗末だ。男性と親しくなるのが目的のようなのに、せっかく調査した相手の個性は完全無視。その方の居場所を突き止めては突撃し、ひたすら話しかけるだけの予定が羅列されている。

 これでは単なる強襲だ。というか、失礼だ。駆け引きもあったものじゃない。


(――この子なら、もっと魅力的な手段がたくさんあるのに!)


 これだけ特徴的な筆跡の主は、クラスに一人しかいない。

 ノートを持つ手に力がこもる。湿り気で頁を傷める前に、慌てて机の上に置いた。



 書き込みの多さという点においてだけは優秀なノートを、クラリスはじっと睨みつける。


 そのとき、前世の秘書だったときの記憶が、胸の奥をざわりと撫で上げた。

 大企業の秘書室で働いていた自分。

 多忙を極める経営陣のスケジュール管理、海外からやってくるVIPたちへの接遇、取引先へさりげない手土産の準備、記念パーティなどのイベントの手配や運営。会社の売上に直接貢献するような仕事ではないが、世界を動かす経営者たちが少しでも心地よく円滑に動けるように、常に情報をサーチして、計画を考える。

 隙なくミスなくやり遂げたときの達成感。さりげない気遣いで相手の緊張がほぐれたときの喜び。



 次第に胸の中に燻っていたざわめきが、形を変えて静かな熱を帯び始める。

 クラリスは筆箱から赤色のペンを取り出すと、かつてないほどのやる気に満ちた瞳で、「仕事」を開始した。 

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【完結まで毎日更新します!】未熟なところも多々あると思いますが、少しでも楽しいひとときをお届けできていれば幸いです。 ※物理による圧制はありますが、残酷な描写はほとんどなく、暴力的な要素は控えめです。 ※シリアス要素は薄め。ラブコメ。ハッピーエンド。 ※小説家になろう様、カクヨム様などにも投稿しています。

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