理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
第四章
 うーん、いい匂い。

 さらさらとした絹のようなものが指に触れる。人の髪の毛かな。心地よい手触り。

 甘いフローラルの香り。私の家のシャンプーの匂い。でもなんか甘酸っぱい。レモンのような柑橘の匂いが混ざっている――。

 私はその物体に触れながら微睡む。「ブーッブー」と虫の羽音みたいな耳障りな音声が聞こえる。

 ――え、今何時?

 私はスマホのバイブ音とカーテンの隙間から漏れ入る陽光に気が付いて目覚めた。

 スマホ、何回目かのスヌーズになっている。ベッドの宮棚に載っているそれをのろのろと手に取って確かめる。うわ、嘘?!

「住良木さん!! 起きて!! もう八時半!! 今日TAだ!!」

 隣で枕に突っ伏してぐっすりと眠っている住良木さんをバシバシと叩き起こす。

 住良木さんはすぐに飛び起きて、猛然と床に脱ぎ捨てられたままの服を身に付け始める。顔、半分寝ている。けど、すごいスピード。

「走って、住良木さん! プリントは任せました!」
「お前は?」
「一緒に出ると怪しまれるからあとで講義棟に直接行きます! 先行ってください!」

 私が慌てふためきながらそう言うと、住良木さんは鞄を掴んで乱暴にドアを開けて飛び出していった。すごい、起きてから五分。このこなれ具合、時々同じようなことをやっているな、と私もまた着替えを急ぐ。

 昨日は大学助手の高橋さんの学会準備の手伝いで住良木さんも私も遅くなって、流れでそのまま一緒にご飯食べることになって、それで深夜に家に来て何となく……といった感じだった。けど盛り上がり過ぎたかも。少しでやめるはずだったのに結局二人して何度も繰り返してしまった。

 色ボケもいい加減にしなくちゃ。洗面所の鏡の前で頬をぺちぺちと叩き気合を入れ直す。さあ、今日は私も走るぞ。取るものも取りあえず、昨日家に帰った時と同じ状態で床に置いてある鞄を手に取って玄関から飛び出し、急ぎ足でアパートの階段を駆け下りた。

「ああ、疲れた。今日はさすがにヤバかったですね」
「そうだな。久々に全力疾走したわ」

 ぎりぎり間に合った一限のTAの仕事が終わって、私たちは講義棟から研究棟へ続く渡り廊下を歩いていた。無機質な白で統一された広い渡り廊下にペタペタとスニーカーの足音が響く。全面ガラス張りの壁面から差し込む午前の陽光が眩しい。向かいから講義に向かう他所の研究室の教授が歩いてきて、軽く挨拶を交わす。

「平日は控えましょう」
「だな」

 住良木さんはそう言いながら私の肩口辺りを見てにやにやしていた。

「? 何ですか?」

 私は肩のあたりを触りながら尋ねる。今日はぎりぎりだったから研究室に白衣を取りに行く暇がなく、私服のままだ。服もとりあえずクローゼットの中で手に付いたものを着たら、社会人である姉からおさがりでもらった肩口に穴が開いたデザインの黒のサマーニットだった。不覚にも肌見せスタイルになってしまったが着替える暇もなく仕方なしにそのまま来た。そういえば今日は学部生の、特に男の子たちの視線が私に時々集中していたように思う。気のせいかもしれないけれど。なんか服に変なものでもついていたかな。

「お前、気づいてねえの」

 研究棟の薄暗い階段の踊り場で、寄贈品の大きな四角い鏡の前に立たされる。「?」と自分の見慣れた全身像を見せられて困惑する私に、住良木さんが「違う違う」と言って私の両肩を掴んでくるりと後ろ向きにする。

「ここ、ここ」

 住良木さんに背中側の肩口をとんとんと突かれて問題箇所を指摘される。うわ! サマーニットの穴から丁度見えるところに、がっつりキスマークがついている! わざわざ肩口が出る服を着て、まるで見せたいみたいじゃん! そりゃ皆チラ見するわ! もう最悪!

「つけないでって言ったじゃないですか」

 私は顔を赤くして小声で住良木さんに抗議する。手にしていたファイルで住良木さんの腕をべちべちと叩くが、住良木さんは抵抗せずに面白そうに笑っているだけだった。

「肩ならいいかって思ったんだよ。白衣着るし。首とか胸元よりはいいだろ」

 住良木さんは私をおいて、プリントの入ったトレーをもって足早に階段を上っていった。全く反省していないな、あの男。
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