理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
月曜日の朝。
私は研究室のドアの前で一人、立ちすくんでいた。
この週末は久しぶりに何の予定も入れず、一人で過ごした。
土曜日に一人研究室に立ち寄って趣味と実益を兼ねた試験管洗いを心ゆくまで堪能し、帰りに大学図書館に寄って、取り寄せていた論文を受け取り、読みたかった学術書を好きに読み漁って帰宅した。翌日の日曜には倉庫整理のスポットバイトを入れてしっかり労働した。
何だかすごくリフレッシュできた気がする。私は元々こういう人間なんだって改めて実感した。私を形作っているものは学問と労働と規則正しい生活習慣である。
その平和な週末があけて、今日、このドアを開くのが怖い。
笠井君、あの後、住良木さんと話し合ったのかな。何の進展も聞いていない。
住良木さんとはこのところ会っていないし、詳細が全く分からない。笠井君が発案した、二人で私を共有するという異常な提案はどこに辿り着いたんだろう。
二人が揉めて険悪な雰囲気になっていたら嫌だな。お通夜みたいにどよんとしていたらもっと嫌だ。でも、意外と全てが笠井君の冗談で、何でもありませんでしたーってことになっていないかな。それだってきっとあり得る。いつまでもこんなところに突っ立っていたって始まらない。さっと入って、何も知らないふりをしよう。
私は意を決してドアを開けた。正面の窓から差し込む朝日が眩しい。
「おう! 相川! おはよう! 相変わらずシケた面してんな! ちゃんと飯食ったか?」
うわ、まさかのいきなりハイテンションの住良木さん。ちょっと何!? 妙に上機嫌で気持ち悪いんですけど。自分のデスクに戻ってきたのか、すでにパソコンを開いて作業を始めている。ハーフアップにした茶色い長い髪がつやつやと朝日に煌めいて綺麗。
「――おはようございます」
不気味すぎる。住良木さんの変容を訝しく思いつつ、私はそろそろと自分の席に向かった。
「相川さん、おはようございます」
うわ、びっくりした! いないと思っていた笠井君の姿に驚く。机に突っ伏していたから作業台で死角になっていて入口から見えなかった。ていうか笠井君、顔色悪くない? 抜群に酒臭いし。
「ちょっと大丈夫?」
「ああ、大丈夫です。普通に二日酔いなだけで。住良木さんってめちゃくちゃ酒強いんですね。僕、知りませんでした」
そういうことか。一緒に飲んでしっかり潰されちゃったのね。哀れな笠井君に自分用に持ってきたお茶のペットボトルを手渡す。
「俺も知らなかったわー、笠井のあんなこととか、こんなこと」
ししし、と怪しい笑いを噛み殺し、住良木さんがちゃちゃを入れる。全くこの男は、何も反省していないな。
「飲ませすぎですよ、住良木さん。時と場合を考えてください」
はーい、わかってまーす、と住良木さんのふざけた返答に私はむっとして「ちゃんと反省してください!」と怒鳴る。笠井君が「大声は止めてください、頭に響く」と力なくぼやく。
なんだかよくわからないけれど、いつもの日常が戻ってきた気がする。飲みに行ったってことは二人で色々話し合ったってことだよね。どうなったんだろう。気になるけど今はこの元通りになった空気感が嬉しい。
二日酔いの哀れな笠井君は早々に助教に呼ばれると、研究室をよろよろと出ていった。午前中いっぱいはあの状態だな、笠井君。なんかやらかしたらフォローしてあげよう。
「――二人で飲みに行ったんですか、住良木さん」
先送りにすればするほど聞きづらくなるだろうから、思い切って尋ねる。パソコンから目を離した住良木さんが私のデスクの方にくるりと回転する。
「うん、飲みってほどじゃないけど。ファミレスで飯食いながら喋ってたらめっちゃ盛り上がっちゃって」
ししし、と独特の引き笑いで何か思い出しているみたい、住良木さん。笠井君から何をどこまで聞いたのかな、怖すぎる。
「めっちゃおもしろかったわ。笠井ってあんな奴だったんだな。お前知ってる? あいつが前の前の彼女に●●●してもらおうとしたら○○されて△△△になった話とか」
まだ昨晩の興奮が冷めやらぬのか住良木さんは一人で笑っている。ていうかその話の内容、ほぼ放送禁止用語なんですけど。
「やめてください、朝っぱらから。二人で猥談して仲良くなったんですね。それならそれで良かったです」
もう、いいや。心配して損した。そういうことなら今は余計な詮索しないで放っておこう。
私は白衣を着てファイルとノートを持って研究室を出ようとした。午前中は前回の実験の続きをしよう。今日も一日頑張るぞ。
「――ちょっと、どいてください」
ドアの真ん前に白衣を着崩した住良木さんが立っている。私がちょっと目を離した隙に音もなく移動したみたい。ハーフアップの髪に、いつも左右不均等に三、四個、つけている黒のステンレスのフープピアス。ダークグレーのオーバーサイズの古着のTシャツに黒のスキニーのダメージデニムで白衣を羽織るように腕まくりで着ている。白衣のポケットに手を突っ込んで、にやついていて嬉しそう。今日はずっと上機嫌だな、住良木さん。
「キスしてくれたら、どく」
はあ? 何言ってるんだ、この男は。やっぱり笠井君から何か聞いたな。
「嫌です、しません。どいてください」
何だかむかついたので反抗的な態度をとる。住良木皐月を増長させていいことなど何もない。
ぱっと住良木さんが身を翻して私を右の壁際に押し付ける。ひ、壁ドン! 至近距離! 朝から無駄に放出される住良木さんのイケメン破壊力に身が縮む。お酒を飲んだ次の日の朝のはずなのに相変わらず柑橘の良い匂いがする。く、すごい攻撃力。
「お前に何してもいいって、笠井、言ってた」
住良木さんの白い大きな手で顎をくいっと摘まれる。うわっ顎クイ! 週末に養った英知が減っちゃう! 朝からフェロモン出てます、住良木さん!
「住良木さんはそれでいいんですか?」
住良木さんが親指でゆっくり私の唇をなぞる。キス、される? 朝からダメージでかいんですけど。
「いいよ。俺、あんま独占欲とかねえし。お前を好きにできるなら、それでいい」
うわ、キスだ! でもここ研究室!
私は手に持っていたファイルでさっと顔をガードする。住良木さんがファイルとキスしそうになって前につんのめって止まる。
「――お前なあ」
「ここは研究室です。そういうのは他所でやってください」
私は赤面した顔をファイルで隠しながら訴える。もう! いいとなったらすぐに手を出すなんて、住良木さん単純すぎ!
「じゃあ、他所ならいいんだな」
「……」
無言の私を見て住良木さんが吹き出す。なんか安心した。話し合いは予想外の結末に向かったみたいだが、とりあえず住良木さんは彼なりの着地点を見出したみたい。
「じゃあ、今週土曜の夜。最終面接の後。お前、さすがに空いてるだろ?」
私はファイル越しにこくこくと頷く。
住良木さんのコネクションもあってか私はおそらく別枠で選考されているようで、オンライン面接は早々に合格し、もう今週末には帝海大の研究施設内での最終面接が予定されていた。住良木さんには何でも筒抜けだな。別にいいんだけど。
「俺、その日、誕生日なんだよ。知ってた?」
私はファイルで顔を隠したまま首を横に振る。
「だよな、言ってないし。お祝いしてくれるよな?」
「……」
私は無言を貫く。誕生日は普通におめでたいけど何でもかんでも住良木さんの言いなりになるのは解せない。
「俺、この数日、結構しんどかったんだけど」
住良木さんがファイルの上の方を指でぐっと押し下げてくる。く、負けない。
「普通の、お祝いならします」
ファイルから目だけを覗かせた状態で私は何とか言葉を発する。久々の住良木さんのイケメン破壊力、パワーあり過ぎ。身が持たない。
「なにそれ。なんか普通じゃないことでも期待してんの?」
住良木さんが淫靡ににやつく。しまった! 逆に煽ってしまった! ていうか、廊下の方から人の足音する! 笠井君、戻って来ちゃう!
ちゅっ、と住良木さんは私の額にキスするとさっと席に戻っていった。
「場所は後で連絡するから必ず来いよ」
言うやいなやドアががちゃりと開く。か、笠井君。
「相川さん、こんなとこで何してるんですか。ぶつかりますよ」
澄ました顔をしているが口角が上がっている。なんか、色々悟っているっぽい。
こんなの全然平気じゃない! 私は二人を置いて研究室を飛び出した。心臓の鼓動が止まらない。もう胸が張り裂けそう。こんな日常、心臓がいくつあっても足りないんだけど。だから、理系喪女の私がこんなにモテていいわけないって言ってるのに!!
私は研究室のドアの前で一人、立ちすくんでいた。
この週末は久しぶりに何の予定も入れず、一人で過ごした。
土曜日に一人研究室に立ち寄って趣味と実益を兼ねた試験管洗いを心ゆくまで堪能し、帰りに大学図書館に寄って、取り寄せていた論文を受け取り、読みたかった学術書を好きに読み漁って帰宅した。翌日の日曜には倉庫整理のスポットバイトを入れてしっかり労働した。
何だかすごくリフレッシュできた気がする。私は元々こういう人間なんだって改めて実感した。私を形作っているものは学問と労働と規則正しい生活習慣である。
その平和な週末があけて、今日、このドアを開くのが怖い。
笠井君、あの後、住良木さんと話し合ったのかな。何の進展も聞いていない。
住良木さんとはこのところ会っていないし、詳細が全く分からない。笠井君が発案した、二人で私を共有するという異常な提案はどこに辿り着いたんだろう。
二人が揉めて険悪な雰囲気になっていたら嫌だな。お通夜みたいにどよんとしていたらもっと嫌だ。でも、意外と全てが笠井君の冗談で、何でもありませんでしたーってことになっていないかな。それだってきっとあり得る。いつまでもこんなところに突っ立っていたって始まらない。さっと入って、何も知らないふりをしよう。
私は意を決してドアを開けた。正面の窓から差し込む朝日が眩しい。
「おう! 相川! おはよう! 相変わらずシケた面してんな! ちゃんと飯食ったか?」
うわ、まさかのいきなりハイテンションの住良木さん。ちょっと何!? 妙に上機嫌で気持ち悪いんですけど。自分のデスクに戻ってきたのか、すでにパソコンを開いて作業を始めている。ハーフアップにした茶色い長い髪がつやつやと朝日に煌めいて綺麗。
「――おはようございます」
不気味すぎる。住良木さんの変容を訝しく思いつつ、私はそろそろと自分の席に向かった。
「相川さん、おはようございます」
うわ、びっくりした! いないと思っていた笠井君の姿に驚く。机に突っ伏していたから作業台で死角になっていて入口から見えなかった。ていうか笠井君、顔色悪くない? 抜群に酒臭いし。
「ちょっと大丈夫?」
「ああ、大丈夫です。普通に二日酔いなだけで。住良木さんってめちゃくちゃ酒強いんですね。僕、知りませんでした」
そういうことか。一緒に飲んでしっかり潰されちゃったのね。哀れな笠井君に自分用に持ってきたお茶のペットボトルを手渡す。
「俺も知らなかったわー、笠井のあんなこととか、こんなこと」
ししし、と怪しい笑いを噛み殺し、住良木さんがちゃちゃを入れる。全くこの男は、何も反省していないな。
「飲ませすぎですよ、住良木さん。時と場合を考えてください」
はーい、わかってまーす、と住良木さんのふざけた返答に私はむっとして「ちゃんと反省してください!」と怒鳴る。笠井君が「大声は止めてください、頭に響く」と力なくぼやく。
なんだかよくわからないけれど、いつもの日常が戻ってきた気がする。飲みに行ったってことは二人で色々話し合ったってことだよね。どうなったんだろう。気になるけど今はこの元通りになった空気感が嬉しい。
二日酔いの哀れな笠井君は早々に助教に呼ばれると、研究室をよろよろと出ていった。午前中いっぱいはあの状態だな、笠井君。なんかやらかしたらフォローしてあげよう。
「――二人で飲みに行ったんですか、住良木さん」
先送りにすればするほど聞きづらくなるだろうから、思い切って尋ねる。パソコンから目を離した住良木さんが私のデスクの方にくるりと回転する。
「うん、飲みってほどじゃないけど。ファミレスで飯食いながら喋ってたらめっちゃ盛り上がっちゃって」
ししし、と独特の引き笑いで何か思い出しているみたい、住良木さん。笠井君から何をどこまで聞いたのかな、怖すぎる。
「めっちゃおもしろかったわ。笠井ってあんな奴だったんだな。お前知ってる? あいつが前の前の彼女に●●●してもらおうとしたら○○されて△△△になった話とか」
まだ昨晩の興奮が冷めやらぬのか住良木さんは一人で笑っている。ていうかその話の内容、ほぼ放送禁止用語なんですけど。
「やめてください、朝っぱらから。二人で猥談して仲良くなったんですね。それならそれで良かったです」
もう、いいや。心配して損した。そういうことなら今は余計な詮索しないで放っておこう。
私は白衣を着てファイルとノートを持って研究室を出ようとした。午前中は前回の実験の続きをしよう。今日も一日頑張るぞ。
「――ちょっと、どいてください」
ドアの真ん前に白衣を着崩した住良木さんが立っている。私がちょっと目を離した隙に音もなく移動したみたい。ハーフアップの髪に、いつも左右不均等に三、四個、つけている黒のステンレスのフープピアス。ダークグレーのオーバーサイズの古着のTシャツに黒のスキニーのダメージデニムで白衣を羽織るように腕まくりで着ている。白衣のポケットに手を突っ込んで、にやついていて嬉しそう。今日はずっと上機嫌だな、住良木さん。
「キスしてくれたら、どく」
はあ? 何言ってるんだ、この男は。やっぱり笠井君から何か聞いたな。
「嫌です、しません。どいてください」
何だかむかついたので反抗的な態度をとる。住良木皐月を増長させていいことなど何もない。
ぱっと住良木さんが身を翻して私を右の壁際に押し付ける。ひ、壁ドン! 至近距離! 朝から無駄に放出される住良木さんのイケメン破壊力に身が縮む。お酒を飲んだ次の日の朝のはずなのに相変わらず柑橘の良い匂いがする。く、すごい攻撃力。
「お前に何してもいいって、笠井、言ってた」
住良木さんの白い大きな手で顎をくいっと摘まれる。うわっ顎クイ! 週末に養った英知が減っちゃう! 朝からフェロモン出てます、住良木さん!
「住良木さんはそれでいいんですか?」
住良木さんが親指でゆっくり私の唇をなぞる。キス、される? 朝からダメージでかいんですけど。
「いいよ。俺、あんま独占欲とかねえし。お前を好きにできるなら、それでいい」
うわ、キスだ! でもここ研究室!
私は手に持っていたファイルでさっと顔をガードする。住良木さんがファイルとキスしそうになって前につんのめって止まる。
「――お前なあ」
「ここは研究室です。そういうのは他所でやってください」
私は赤面した顔をファイルで隠しながら訴える。もう! いいとなったらすぐに手を出すなんて、住良木さん単純すぎ!
「じゃあ、他所ならいいんだな」
「……」
無言の私を見て住良木さんが吹き出す。なんか安心した。話し合いは予想外の結末に向かったみたいだが、とりあえず住良木さんは彼なりの着地点を見出したみたい。
「じゃあ、今週土曜の夜。最終面接の後。お前、さすがに空いてるだろ?」
私はファイル越しにこくこくと頷く。
住良木さんのコネクションもあってか私はおそらく別枠で選考されているようで、オンライン面接は早々に合格し、もう今週末には帝海大の研究施設内での最終面接が予定されていた。住良木さんには何でも筒抜けだな。別にいいんだけど。
「俺、その日、誕生日なんだよ。知ってた?」
私はファイルで顔を隠したまま首を横に振る。
「だよな、言ってないし。お祝いしてくれるよな?」
「……」
私は無言を貫く。誕生日は普通におめでたいけど何でもかんでも住良木さんの言いなりになるのは解せない。
「俺、この数日、結構しんどかったんだけど」
住良木さんがファイルの上の方を指でぐっと押し下げてくる。く、負けない。
「普通の、お祝いならします」
ファイルから目だけを覗かせた状態で私は何とか言葉を発する。久々の住良木さんのイケメン破壊力、パワーあり過ぎ。身が持たない。
「なにそれ。なんか普通じゃないことでも期待してんの?」
住良木さんが淫靡ににやつく。しまった! 逆に煽ってしまった! ていうか、廊下の方から人の足音する! 笠井君、戻って来ちゃう!
ちゅっ、と住良木さんは私の額にキスするとさっと席に戻っていった。
「場所は後で連絡するから必ず来いよ」
言うやいなやドアががちゃりと開く。か、笠井君。
「相川さん、こんなとこで何してるんですか。ぶつかりますよ」
澄ました顔をしているが口角が上がっている。なんか、色々悟っているっぽい。
こんなの全然平気じゃない! 私は二人を置いて研究室を飛び出した。心臓の鼓動が止まらない。もう胸が張り裂けそう。こんな日常、心臓がいくつあっても足りないんだけど。だから、理系喪女の私がこんなにモテていいわけないって言ってるのに!!