理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
番外編1-1
「なあ? お前最近、院部屋行った?」
「行ってないけど。なんで?」

 ここは早染大学、有機化学研究室のフロアの一角、俺たち学部生らが使用している大部屋だ。

 研究棟三階の十畳ほどの角部屋で学部生や留学生、総勢八名ほどが収容されている。特に珍しくもない、大部屋にデスクとチェアが置かれただけのただの研究室だ。でもまあ、清潔で窓も広くて明るいので、俺はまずまず気に入っている。

 今は昼休みを少し過ぎたぐらいの時間なので講義中の学生も多い。現在、部屋に居るのは、大学四年生の俺、鈴木恭一(すずききょういち)と、今、俺に話しかけた同級生で友人である池内瑞樹(いけうちみずき)、あとは留学生の中国人のワンさんとフィリピン人のグレースさんぐらいだ。

 瑞樹は先ほど、指導係である特別研究員の住良木さんからデータを受け取るために普段あまり入ることのない院部屋に立ち寄ったらしい。院部屋なんて博士と院生と研究員の掃き溜めのはずだが、瑞樹は何だか顔を紅潮させて興奮している。なんだ? ハイスペック男子・住良木さんのパソコンにエロいものでも見つけたか?

「なんかヤバいエロかわになってたんだよ。相川さん」

 は? なんで相川さん?

 相川さんは博士課程二年目の俺の直属の先輩だが、失礼にも「エロ」からも「可愛い」からも程遠い女性だった。

 いつも千円カットのボブヘアとボーダーのカットソーとデニムみたいな無難な格好をしていて、色気も何も感じられない。博士課程なだけあって頭が良く、真面目で面倒見のいい先輩だがそれだけだった。俺も先月、ラボミーティングで会ったが、その時も近所のスーパーに買い物に行くおばちゃんのような格好をしていて、少なくとも「エロかわ」ではなかった。

 ――何言ってんだ、こいつ。

「瑞樹、目、悪くなったんじゃないのか? それとも最近、小春(こはる)ちゃんと上手くいってないのか?」

 小春ちゃんは瑞樹と同じサークルに所属する瑞樹の年下の彼女だ。俺も会ったことがあるが、小柄で可愛らしい女の子だった。

「違うって。本当にエロかわだったの! 恭一の直属の先輩だろ? 最近会ってなかったのかよ?」

 折角頂いてきたデータのチェックどころではなくなったらしく、パソコンを開いたものの手が付かなくなっている瑞樹に本気度を感じる。

 ええ? ラボミーティングなんてほんの先月だぜ? その後、卒論の実験の指導でミーティングの翌週ぐらいに喋ったかな? 正直あんまり覚えていない。

「どうだったかな? そもそもそんなに印象に残る人じゃないし……」

 どうせ、そそっかしい瑞樹が別の誰かと見間違えたんだろ。話にあまり気が乗らず、パソコンの方に向き直る。

「お前、進学するから来年、院部屋だろ? あー羨ましい、あんなエロかわと同室なんて」

 瑞樹が椅子をぐらぐらさせて悶絶している。アホか、年食った地味女と同室でどこが羨ましいんだ。

「別にどうでもいいよ、相川さんなんて。それより瑞樹、そのデータ、チェックしなくていいの? 論文の草案提出、来週までなんだろ?」

 ああーっと悶絶しつつもパソコンを操り始める瑞樹を見届けて、俺の意識は自分の目の前の課題に移った。

 そもそも俺は大学院を無事卒業して、就職するまで恋愛は二の次という主義でいる。自分のこともちゃんと出来ていないのに女の子にうつつを抜かしたくない。俺は瑞樹とは違うのだ、と、なおも集中力を欠いている様子の友人を尻目に気合を入れ直し、やるべきデータの解析を進め始めた。

 * * *

 今日は実験の日。第一実験室にて前日から準備していたサンプルを希釈して分析機器にかける。

 この機器は何度も使用しているし、手順は覚えている。念のため、マニュアルを傍らに置いて、機器を起動し始める。

「――あれ?」

 手順通りにやったはずなのに機器が途中でフリーズする。ええ? どうなってんだ? 何これ? 訳が分からず、適当にボタンを押しては反応がなくて困惑する。

「――どうしたの?」

 背後から声がかかる。ん? 相川さん?

「あ、ちょっとフリーズしたみたいで……」

 俺はそう言いかけて背後の横並びに並んだ実験台の方に振り向く。長めのボブヘアに無地のアースカラーのTシャツ、デニム姿の女性がいる。――え? 誰? 相川さん? なんか違う感じだけど――。

「どれどれ、見せてみて」

 相川さんらしき女の人が近寄る。

 うわ、いい匂い。フローラルと柑橘が混ざったみたいな香り。髪、ふわふわで適度にくせ毛のニュアンスが残るようにカットされていてお洒落。

 機器を覗き込むように相川さんらしき女の人の身体が俺に近づく。ちょ、何だ、この身体。素晴らしい曲線美。相川さんってもっと直線的な身体だと思っていたけれど今は出るところが出ていて締まるところが締まっている。適度に身体にフィットしたメーカーの量産品のTシャツの上からでもその凹凸がよくわかる。俺は思わずごくり、と生唾を飲む。

「ああ、これ補液が切れてるね。本体のアプデもあるみたいだし今動かせないわ。私、この後、これ使うから補液の補充とアップデートやっとくよ。鈴木君のサンプル、その後でもいい?」

 機器のある方からきゅっと上目遣いに顔を覗き込まれる。綺麗なアーモンド形の黒目とサーモンピンクの唇が艶やかに輝く。

 え!? めっちゃ可愛い。何で?! 髪型が違うから? メイク? 女の人の容姿に詳しいわけじゃないけど、以前とは比べ物にならないくらい可愛い。

「……」
「鈴木君?」
「ああ、すいません、ぼーっとして。僕のは後でいいです。ありがとうございます。よろしくお願いします」

 思わず見とれて反応がワンテンポ遅くなる。ええ?! 本当に相川さん?! 同一人物と思えないほどの変わり様なんだが。瑞樹が「エロかわ」って言っていたわけが分かる。ぐうの音も出ないほど確かにエロくて可愛い。

「いいよ。鈴木君、頑張っているから。鈴木君みたいに優秀な子が院に進んでくれるならうちも安泰だわ」

 可愛さマシマシで以前と同じようなことを褒められる。うわっ、ヤバい、この人。エロかわを振り撒いている!

 こ、これ以上、相川さんと話しているとダメージが! 俺は薄ら笑いを浮かべながらサンプルを持ってそそくさとその場を後にした。

 何だ、あれ。本当にあの人が地味でおばちゃん然としていた相川さんか?! エロかわが過ぎるんだが。確かにあの人と同室は破壊力があり過ぎて俺はヤバいかもしれない。

 俺は相川さんの扇情的な身体のラインと弾むような声で俺を褒め称える可愛い笑顔を何度もリフレインしながら研究室に戻った。

 ヤバいかもしれないが、俺の大学院ライフは相川さんによって素晴らしいものになるかもしれない。俺は相川さんと二人、あの狭い院部屋で過ごすメルヘンな未来を思い浮かべながら一人デスクでニヤついていた。
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