理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
 梅雨の合間のよく晴れた木曜日、私は所用で帝海大のキャンパスを歩いていた。

 暑くも寒くもない気持ちの良い日。キャンパスの小道にはベンチで仲間と談笑する学生や緑地を歩くカップル、芝生の上で専門本を片手に日光浴する助教か研究員の中年の男性の姿をちらほらと見かける。

 住良木さんと私が所属する研究所は少人数制なだけあって、何でも自分たちでやらなくてはならない。私が買われたのはこのあたりの事情もあるのだろう。今日も、通常、経理がやるような業務を私が処理して、大学事務局に出向いていた。

 でも、そういう仕事も嫌いじゃなかった。向いているっていうか何ていうか。私の器用貧乏が最大限に生かされている感じがあって、やりがいもあった。

 それに雑用があっても、なんやかんやでお給料いいんだよね、うち。ベンチャーってとことん駄目なケースもよく聞くけど、うちはその真逆だ。最初から特許ありきの出来レースで売り上げを伸ばしまくっている。仕事の量じゃなくて質で勝負する世界だから、長時間労働できついってこともないし、待遇もすごくいい。私たちは恵まれていると思う。

 これで、失恋さえしていなければ最高にいい気分なんだろうけど――。

 こんなにいい天気なのにやはり笠井君のことがどうしても頭を過ぎる。

 ――笠井君、どうしているかな。こないだはびっくりして話もろくに聞かずに帰っちゃったけど、あの時、ちゃんと話し合っておけばよかった。結局なんで突然別れるなんて言い出したんだろう――。

 晴れ晴れとした陽気とは裏腹に鬱々した面持ちでキャンパスの小道を一人とぼとぼと歩く。小さな緑地と池が備わったビオトープをもつ環境科学研究所の横を通り過ぎる時、池のほとりのテラス席に座っている人物がふと目に入った。

 ――え、笠井君?

 驚いて立ち止まると、一人、仕事着姿でタブレットを触っていた彼とばちっと目が合った。

 ――やばい。逃げろ。

 私は大急ぎで小道を走り出した。

「それはないでしょう! 相川さん!」

 と、背後から笠井君の大声が響いて立ち止まる。

 恐る恐る振り返ると、そこには試薬メーカーの名前が入った紺色の作業着にネクタイ姿で、顔は学生時代と全く変わらない笠井君の姿があった。

 * * *

「ちょっとこれだけ入力させてください」

 私はタブレットを操る笠井君の向かいの席で黙ってその姿を見守る。

 私たちは環境科学研究所に併設されている、来場者向けのカフェに腰を落着けた。フードコートのような造りの三テーブルしかない小さなカフェ。帝海大のオリジナルグッズを扱った売店も併設されているため、観光客みたいな人もちらほら見かける。

 試薬メーカーに就職した笠井君は、新人研修を経て、各研究機関をルートで回る試薬営業――いわばテクニカルセールスになった。

 研究職じゃないの、と最初は意外に思ったけど、よく考えるとその仕事は笠井君にピッタリだった。

 テクニカルセールスは試薬を販売する傍ら実験や研究のアドバイスも行うので、ある程度、学問のバックグラウンドが必要だし、准教授や助教などの気難しい方々と上手く付き合える対人スキルも必要だ。笠井君はその二つをきっちり兼ね備えている。

 ――それに昔から妙に権力者に気に入られるとこあるんだよね、笠井君って。

 真面目な顔つきでタブレットを操る彼に改めて尋ねる。

「何でうちの大学にいるの」
「春から帝海大の環境科学研究所の担当になったんです。普通に仕事ですよ」

 笠井君は手早くタブレットに入力し終わると、胸ポケットから手帳を取り出して何かを書き込んでいく。

 ――笠井君、随分大人っぽくなったな。社会人って感じ。新卒感もないし、もう一人前なんだろうな。私なんて博士課程の延長みたいな感じだし、全然比べ物にならないかも。だから捨てられたのかな――。

 うう、超マイナス思考。失恋したてでどうしてもそうなる。ようやく仕事が終わった笠井君が紙コップのコーヒーを一口飲んで私に向き直る。

「……こないだ、すいませんでした」

 深々とつむじが見えるぐらいお辞儀する笠井君。うーん、そうなるよね。

「ううん、私も。ろくに話も聞かず帰っちゃってごめん」

 私も深々と頭を下げる。なんだかクレーム対応みたいな現場だが元恋人同士だというのだから恐ろしい。

「……ええと、何から話そうかな。あ、住良木さん元気ですか?」

 私と話しているのに住良木さんのことか。まあ、友だちだしね、と思って「元気だよ」と適当に返す。

「どっから話すかなぁ……まだ仕事中だしなぁ……」

 笠井君が腕時計をちらちら見ながら思案している。後輩を困らせてはいけないな。私は自ら切り込む。

「私と別れたいって話でしょ。それは分かったよ。でも何で?」

 笠井君がはっと顔を上げる。かつて何度も見つめた眼鏡越しのちょっと鋭い目つき。懐かしくてきゅんとする。

「……好きな人が出来たんです」

 笠井君が下を向いてもじもじする。あれ? なんか珍しい反応だな。

「そうなんだ。その人ともう付き合ってるの?」
「まさか! まだ、一回ご飯に行っただけです。まだ告白もしていませんよ」

 笠井君が赤くなって目を泳がせる。おやおや? なんかいつもの彼じゃない。

「……その、寝取られとかはいいわけ? その人とは」
「ありえませんよ。そんなの。そういうの、もうどうでもいいんです」

 おやおやおや? これはいつもの性的倒錯者の笠井君と全く様子が違う。私は気合を入れ直して、おいしくもなんともない紙コップのコーヒーを一口啜った。
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