理系喪女の私がこんなにモテていいわけがない
「その人はこの春、中途採用でうちに入社してきた人なんです」

 コーヒーを飲み切った笠井君が腹を括ったように話し始めた。私は黙ってそれを聞く。

「別に、綺麗な人でも可愛い人でもありません。普通の人です。歳だってずっと上ですし。えっと、三十二って言ってたかな」
「住良木さんと同い年じゃん」

 そうですね、と笠井君が微笑む。ああ、この顔も今日で見納めか、なんて切なくなる。

「でも、なんか好きになっちゃったんです。その人とは話しているだけで幸せですし、何ならその人が普通に生活していて息しているだけで尊いレベルです」
「マジか。純愛じゃん」

 思わず口をついて出る。笠井君がくすりと笑う。彼、やっぱり感じが変わった。もう性的にがつがつしていたかつての彼じゃない。

「だからもう、こういうの止めようって思って。そもそも好きな人がいるのに相川さんと付き合っているのも失礼ですし。とりあえず一人になって改めてその人と向き合うことにしました」

 ――笠井君、私の知らない間に随分遠くに行っちゃったんだ。それはきっと恋ではなくて愛だ。笠井君は成熟した大人の恋愛にいつの間にか到達した気がする。

「でも、その人とはご飯に行っただけなんでしょ? まだうまくいくとは限らないんじゃない?」

 なんて、私もちょっと意地悪してみる。でも、これはもう結論が出ているな。本心では段々諦めがついてきた。

「そうですけど、でも、いいんです。とりあえずその人が元気で生活しているだけで僕は幸せですから」

 にこり、と笠井君らしからぬ純真な笑みを浮かべる。――ああ、この人、本当に変わった。真実の愛ってやつを見つけたんだ。――もう駄目だね。ようやくきっぱりと諦めがつく。今の彼の気持ちは私に向けられていたものと全く質が違う。

「……そっか。それじゃ仕方ないね。お別れするしかなさそうだ」

 私はそっと呟く。意外とダメージ少ないかも。笠井君が人として一つ上のランクに昇格したことに先輩として喜びを感じる。

「すいません、相川さん。突然こんなことになってしまって……でも、こんな気持ち、初恋の時以来なんです。僕、自分の気持ちに嘘は吐けません」

 笠井君がまた旋毛が見えるほどのお辞儀をする。――なんか、あっという間だったなぁ。私もあっさりとそれを受け入れる。

「うん、もういいよ。よく分かった。笠井君のこと、これからも応援しているね。今までありがとう」

 なんて、本当はまだ好きだけど、年上だし格好つけたくて別れの言葉を紡ぐ。
 ――さようなら、笠井君。貴方は私の青春でした。

「――住良木さんは」
「ん?」
「住良木さんはきっと僕と同じ気持ちなんだと思います。あの人はきっと、相川さんの事、ずっとひたむきに想っていますよ」

 ――ええ? なんでそこに住良木さん。しかもそんな純粋に私のこと好きかな。真実味が無くて、あまり言葉通り受け止められない。

「そうかな。住良木さんなんて相当な腐れ縁だし、もう空気みたいな存在なんだけど」

 ちょっと照れ臭くなって私は適当にはぐらかす。本当に、私にとって住良木さんはいて当たり前の存在になってしまった。公私ともにべったりだし、その状態がもう二年近く続いている。

「向こうはそう思っていないですよ。相川さんは住良木さんの“特別”です」

 笠井君がにこりと微笑む。真実の愛を知った彼の言葉は重い。でも、身体から始まった関係だし、よくわからない。それにあんなかっこいい人が、いつまでも私みたいなモブを好きだという事実がいまだに信じられない。

「そっかな。あ、もうこんな時間だ。解析終わる頃だから戻らなきゃ」

 などとスマートフォンを見てわざとらしく呟く。本当は試薬営業の彼をあまり長く留め置くのもな、という気遣い。笠井君は知ってか知らずか焦ることなく優しく微笑む。

「そうですね。僕もそろそろ戻らなきゃ。でも、先輩としては尊敬しているのでまた会ってもらえます? 相川さん」

 う、狡い、その顔。何度も愛した彼のキラースマイル。ノーと言えるわけがない。

「――住良木さんも交えてだったらいいよ。……あっ別にアレをするってわけじゃないけど!」

 変な言い方をしてしまって慌てふためく私をよそに、笠井君は大人の余裕をみせて「また連絡します」と言いながら去っていった。くっ、去り際まで私より大人。社会人として完全に負けている。

「はあ~」

 ――そっかぁ、恋愛でも人間的な面でも私は完全に敗北だったな。笠井君が去った後の空席を眺めて私はまた一人盛大な溜息をついた。
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