恋愛経験ゼロの年下くんが、私の一番になりました
 スマートフォンを手にしていたのか呼び出し音は一度も鳴らず、

『もしもし』

 すぐに聞こえた声に亜佑美の心臓が跳ねた。

「あ……」
『木葉さん?』

 足を止めたのだろう。

 電話の向こうから聞こえていた雑踏の音が少し遠のく。

『どうしましたか?』

 その優しい声を聞いた瞬間、自分がとんでもないことをしている気がして急に怖くなった。

「ご、ごめん……」
『何かありましたか?』
「えっと、その……」

 言葉が続かない。

 困ったことが起きた訳ではない。

 ただ――。

「……まだ、帰って欲しくなくて……」

 小さく零れた本音に電話の向こうが静かになった。

 困らせてしまった。

 そう思った亜佑美は慌てて口を開く。

「ごめん! やっぱり何でもないの! 気にしないで――」
『木葉さん』

 名前を呼ばれ、思わず言葉を止める。

『そういうこと、簡単に言っちゃ駄目ですよ』
「ご、ごめん……」
『謝らないでください。ただ、そんなことを言われたら勘違いする人もいますから』

 優しく諭すような声だけど亜佑美の胸には別の言葉が浮かぶ。

(簡単なんかじゃない。藍島くんだから言ったのに……)

 そう思った、その時だった。

『そんなこと言われたら、俺だって……帰れなくなります』

 思いもよらない言葉に亜佑美の胸が大きく跳ねた。

『今、どちらにいますか?』
「エレベーターの前……」
『分かりました。そのまま待っていてください。すぐ戻りますから』

 そこで通話は切れ、耳からスマートフォンを離した亜佑美はその場に立ち尽くす。

 自分から電話を掛けて、帰って欲しくないなんて言ってしまったことを思い返すだけで顔が熱い。

「私……何してるんだろう……」

 それでも、不思議と後悔はなかった。

 そして数分後、自動ドアの向こうに駅へ向かったはずの朝陽が現れた。

「すみません。お待たせしました」

 少し息を弾ませながら近付いてくる朝陽に亜佑美は申し訳なさそうに眉を下げる。

「……ごめんね。私が変なこと言ったから……」

 すると朝陽は小さく首を振った。

「謝らないでください」

 一瞬だけ視線を伏せ、それから照れたように笑う。

「俺、さっきの電話……すごく嬉しかったから……だから、大丈夫です」

 その優しい声に、亜佑美は小さく頷いた。

 帰ってほしくないと思ったことも、戻ってきてほしいと願ったことも、全部、間違いじゃなかった。

 そんな気がして亜佑美は自然と微笑んでいた。
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