本気のキスは甘くとろけて
 ファーストキスは高校生の時に済ませてしまった柚子だが、セックスの経験はまだない。五歳年上の賢人は当然あるだろうが、不思議なことに、柚子に手を出す気配は一切なかった。
 デートで夕食を終えたあとは、それ以上の寄り道をすることなく必ず柚子を帰らせるし、怪しげな空気のバーに誘うだとか、無理やり飲ませて酔った勢いのままホテルに直行だとか、そんなことも一切ない。賢人は一人暮らしをしているそうだが、自宅に柚子を招くこともなく、健全な屋外でのデートしかしない。もしも本当に、ただの遊び相手にすぎないのならば、さっさと体の関係を持ちたがるのが当然のような気がする。

 付き合ってはいるのにセックスをしないこの関係は、遊びにすぎないのか、そうではないのか。ひっそりと、しかし明確に引かれているような気がする見えない線は、いったい何のためにあるのか。絶妙に縮まらないと感じてしまっている賢人との距離感は、いったいいつになれば埋められるのか。自分は彼の恋人だと、胸を張って思っていてもいいのか。
 賢人と付き合っていても、柚子はいつもどこか、淋しさを感じていた。


   ◆◇◆◇◆


「電車、間に合うか?」

 初夏に行われた合コンから、気付けば季節は二回変わり、年も明けた。
 新年を祝う空気がほんの少し薄まった、冬の土曜日のデート終わり。
 賢人は自分の左手首の腕時計と改札内にある時計の両方を確認してから、柚子に尋ねた。

「はい、大丈夫です」

 柚子はこくりと頷く。
 今日は久しぶりに長い時間、賢人と一緒にいられた。長く首都圏に住んでいるが、実はまだ行ったことのない最新の巨大電波塔に行って観光し、のんびりと食事をして、途中でスイーツの食べ歩きもした。そして、今日は夕飯前に別れることになっている。

「また連絡する」

 背の高い賢人は柚子を見下ろした。
 電車なんて、まだいくらでも走っている時間なのに。門限までは、まだ数時間も余裕があるのに。まるで早く柚子を家に帰さねば、という雰囲気で、賢人は柚子と別れる瞬間を待っていた。

(私は……私は本当に、賢人さんの恋人……?)

 ターミナル駅を行き交う大勢の人々。その中の何人かの女性が、賢人にちらちらと視線を向けているのがよくわかる。賢人の格好はごく普通の冬物のロングコートだが、イケメンオーラが余すことなく自然と放たれているのだ。
 芸能人と並んでも見劣りしなそうなほど、麗しい外見の賢人。しかし、自分に注がれるあまたの女性の視線などすべて無視して、ただ柚子だけを見つめている。

「じゃあな」
(……やだ)

 数カ月前に賢人から告白された時は、「好きと思えるにはまだ遠い」なんて思っていたが、今ははっきりとわかる。この高嶺の花のような年上の恋人のことが、とても好きだ。
 だって、別れのその言葉が、胸に突き刺さってとても痛い。「はい、また今度」と言って、離れたくなんてない。その言葉が胸の中に冷たく広げる淋しさに濡れながら、帰りの電車になんて乗りたくない。もっと一緒にいたい。もっともっと傍にいたい。

「柚子?」

 いつもならおとなしく「はい」と返すはずの柚子が黙ったままなので、賢人は怪訝な表情になった。

「あの……賢人さん」

 最近ようやく呼べるようになってきた彼の名前を、柚子はぎこちなく呼んだ。呼び捨てでいいと彼は言ったが、呼び捨てにできる勇気はまだなく、かろうじてさん付けで呼べるようになったばかりだ。

「賢人さんの家に……行きたい……です」

 緊張で全身が縮こまってしまっていた柚子の声は、とても小さかった。
 ちゃんと聞いてもらえただろうか。自分の声は、賢人に届いただろうか。
 柚子は賢人の顔を直接見ることができず、自分の手で自分の手をもじもじとさすりながら、賢人のウエストあたりをそれとなく見つめる。
 しばらくの間、賢人からの返事はなかった。もしかしたら、柚子の声が小さすぎて聞こえなかったのかもしれない。あるいは、聞こえてはいたが承諾しかねるので、断りのための言葉を探しているのかもしれない。
 柚子は緊張したまま、永遠にも思える時間が流れていくのを感じた。
 賢人は何も言わずにいたが、しばらくしてから柚子の手を取ると、目の前にある柚子が乗るはずだった路線の改札に背を向けて、自分の自宅に向かう地下鉄の改札を目指して歩きだした。



(キスって……こんなに甘いんだ)

 初めて訪れた賢人の部屋は、築浅と思われるきれいなマンションの一室だった。あまり物は持たない主義なのか、1DKの室内はすっきりと片付いていて、生活感は薄い。けれど、部屋の隅のスチールラックの上には高校時代のものと思われるサッカーの賞状やメダルがあり、なんだか男の子らしくてかわいいと柚子は思った。
 バッグをダイニングルームの床に置いた柚子は、案内された洗面所で手洗いとうがいをする。それが終わるとすぐに、短い廊下の壁を背にして賢人に顎を固定され、深い口付けをされた。ディープキスはこれまでにも数回ほどしたが、今の賢人はどこか余裕がなく、彼の舌はいささか性急に、柚子の口内と唇を舐め取っている。しかし、そのキスにはいつにない甘さが含まれているような気がした。

「んぅ……」

 長い口付けの終わりに、柚子は小さな息を吐き出す。それから、恐る恐る賢人を見上げた。至近距離で見つめれば、彼の整った顔の作りをまじまじと観察したくなってしまう。くっきりとした二重に、長いまつげ。やや小顔だが首は太く、今でも定期的に運動をしているのか、着ているシャツは少し窮屈そうで、その布の下にある筋肉の硬さが見て取れる気がした。
 賢人に何かを言いたい、言わなければならない。そんな焦りを柚子は感じたが、うまく言葉が出てこない。これからここで何が起きるのか、何もわからないほど子供ではないつもりだ。けれど、この空気を動かして手懐けることができるほどには、まだ大人になりきれていない。

(私は……)

 勇気を出して、賢人の部屋に行きたいと言った。そうしたら賢人は、黙ってここへ連れてきてくれた。もしかしたら、これから抱いてもらえるのかもしれない。それは緊張するが嬉しいことで、嫌なことではない。
 だがその前に、訊いておきたいことがある。どうしても、たしかめたいことがある。

「遊び相手……ですか」
「なに?」
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