ほたる先生は振り向かない
「昔の言葉は、“感情が動いた瞬間”を文法に乗せることがあるんです」

「感情?」

「はい。“今わかった”とか、“今気づいた”とか。そういう心の動きですね」


ふうん、とうなずきながら、私は先生の横顔を見る。

……今、ちょっと授業っぽい。


「じゃあさ」

「まだあるんですか?」

「恋愛でも使う?」


別に試したくて聞いたわけじゃない。

古文は、私には難しい。
回りくどくて、遠回しすぎて、理解不能なことが多すぎる。

だから、いくらでも質問が思い浮かんでしまう。


先生は一瞬だけ黙ったあと、ずーっと見つめている私をなんとなく見やった。

「古文は大体恋愛です」

いたって真剣に、真顔でそう言うものだから、思わず息を飲む。


「……昔の人って、どんな思考回路してんの」

本気で思って、それをそのまま口に出してしまう。


私の素直すぎる感想に、先生は「そうですよね」と同調するような、でもそうではなさそうな言い方で小さく笑った。

「恋愛している時の気持ちなんて、昔から変わりませんよ。他人が理解しようと思う方が無理です」

「先生も恋愛してる時ってその人のことばっかり考えちゃう?ストレート?それとも古文タイプ?」

「さらっと僕のことを聞き出そうとするの、やめてもらえませんか?」

「もー、なんで気づくのー?」


いいところだったのに!と嘆くと、ほたる先生はこっちも見ずにガラッとドアを開けた。

「日焼け止め、次からは忘れないようにしてください」


ドアが閉まる音がしてから、数秒。

先生が言い残した言葉の意味が分からなくて、その場に立ち尽くす。

「……は?日焼け止め?」


────なんのこと?

分からないまま、とりあえずせっかくの『ほたる先生タイム』は今日は終了なのは伝わったので、仕方なく歩き出す。


ぶどうジュースを飲みながら自習室の手前まで来たところで、自分の左腕を見下ろして気づく。

……あ。赤くなってる。


ほたる先生が来るまでの間、ずーっと同じような体勢で職員室前の廊下にしゃがんだり座ったりしていた。
左側だけ、窓からの直射日光を浴びて日焼けしている。


ほんのり赤くなった左腕をさらさらと指で撫でながら、ふわりと笑みがこぼれた。


『“次からは”忘れないように』

……次がある、ってことが、純粋に嬉しい。


ニヤニヤが抑えられないまま、私は冷房の効いた自習室へと戻った。



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