ほたる先生は振り向かない
「古文は、身分社会です」

話し始めたそれは、静かな声。

「誰が偉いか。誰が遠いか。誰が近いか。敬語は、その人間関係を見える形にしたものです」

黒板を指先で軽くやさしく叩いたあと、今度はチョークでカツ、ともう一度書き足した。


【敬語 → 人間関係の地図】


私はノートへ写しながら、少しだけ顔を上げる。

“人間関係の、地図”。


「だから主語が省略されていても、敬語を追うと見えてきます」

ほたる先生は淡々と続ける。

「誰が誰を大事にしているか。誰が距離を取っているか。誰が、誰へ近づこうとしているか」


────距離。

その単語にだけ、思わず反応してしまった。

必死に先生の言葉をノートに綴る他のみんなとは違って、私だけが手を止めて息を飲む。


先生とはまったく目が合わない。
全員に語りかけるように、平等に、分け隔てなく。

必要なことを選び取るみたいに、話し続ける。

「丁寧語も同じです」

そう言って、黒板に小さく書き足した。


【丁寧語=関係を整える言葉】


「親しくても使います。遠くても使います。──ただ、距離感は確実に作ります」

ごく当然のことを、授業として、先生は口にしているだけの話。

それでも私は、無意識にシャーペンを握ったまま、動けなかった。


……だから、そうなんだ。

先生は、ずっと敬語なんだ。

私がずっとタメ口でも。
全然、関係なかったんだ。




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