箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい
❦ヒトの真似事
最悪だ。
とにかく、言葉にできないくらい最悪の朝だ。
ぐにゃりと歪んだ視界の先に、ぼんやりと映り込むのは、見慣れた自室の真っ白な天井。
幾ら瞬きを繰り返しても輪郭が霞んでしまい、まるで水の中にいるように焦点が合わない。
身体が、恐ろしく重い。全身の細胞に鉛でも詰め込まれた用に、布団の底へと引き摺り込まれるような感覚。
ズキズキと脈打つ頭痛。
唾を飲み込むだけで火をつけられたように痛む喉。
皮膚の内側は燃えるように熱いのに、ゾクゾクとするような悪寒が背筋を走り、冷たい汗がじっとりとパジャマを濡らしていく。
「うぅ……っ……」
喉の奥から、自分でも情けなくなるような微弱な呻き声が漏れた。
その最悪の不快感の中で、新那は遅まきながら現状を理解する。
――風邪だ。言い訳のしようもないくらい、完璧な風邪だった。
昨日。あの激しい雨の中を全力で走った。冷たい雨水に文字通りびしょ濡れになった。
帰宅してすぐにお風呂で身体を温めたし、髪だってちゃんとドライヤーで乾かした。
だから「大丈夫、私の免疫力を舐めないでよ」なんて思っていたのだ。
思っていたのに――人間の身体は、新那が思うよりもずっと繊細で、正直だったらしい。
――ピピピピピピピ、ピピピピピピピ――!
沈黙した部屋に、容赦のない耳障りな電子音が鳴り響いた。
サイドテーブルの上の目覚まし時計。いつも通りの、無慈悲な起床時間の合図。
いつもなら、反射的に腕を伸ばしてアラームを叩き止める時間。
「むり……、動けない……」
しかし、今の新那にとっては、指先を一センチ動かすことすら途方もない重労働だった。
腕を伸ばしたい。このうるさい音を今すぐ止めたい。でも、意思に反して筋肉が全く言うことを聞かない。
少しでも頭を動かそうとすれば、視界がぐわんと激しく揺れて、強烈な吐き気に襲われる。目を閉じれば、そのまま底なしの意識の闇へ落ちてしまいそうだった。
――ピピピピピピピ、ピピピピピピピ――!
アラームは鳴り続ける。うるさい。お願いだから静かにして。
けれど、ただの機械に人間の体調を思いやるような情けなどあろうはずもなかった。
その時だった。
――コン、コン。
電子音の隙間を縫うようにして、部屋の木の扉が静かに叩かれた。
「――おはよう」
扉の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた、けれど最近少しだけ角が取れて柔らかくなったアールの声だった。
「起床予定時刻をすでに一分十四秒超過している。遅刻のリスクが発生する」
返事をしなきゃ、と新那は思う。
けれど、喉の粘膜がセメントで固められたように張り付いていて、まともな呼吸さえままならない。
「……っ、……ぅ」
掠れた空気が出るだけで、まともな言葉にならない。目覚まし時計は、なおも部屋の中で狂ったように鳴り響いている。
「お嬢。おはよう」
再び、扉の向こうから声がする。
「室内のアラーム音を確認。しかし、対象の応答を確認できない」
いつもなら、新那はここで「うるさいなぁ、今起きるよ!」とか、「あと五分だけ待って!」とか、何かしらの文句を返すのが朝のルーティンだった。
けれど今日は、それができない。
「……あ……、る……っ」
ようやく絞り出した声は、蚊の鳴くような、自分でも驚くほど弱々しい掠れ声だった。
――コン、コン。
少しだけ強いノック。それから、ほんの数秒間の、張り詰めたような沈黙。
扉の向こう側で、アールの超高性能な電子頭脳が、室内の状況を猛スピードで演算している気配がした。
目覚まし時計の音、新那の微弱な呼吸音、いつもと違う声の周波数。
「――お嬢。体調不良、および生体機能低下の可能性を検知」
そして、アールの声のトーンが一気に低く、鋭いものに変わる。
「緊急につき、規約を無視して入室する」
ガチャン、と激しい音を立ててドアノブが回り、扉が勢いよく開け放たれた。