箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい
 以前の彼なら、間違いなく「経口摂取による水分補給を強く推奨します」だとか、「飲んでください」とか、仕様書を読み上げるような冷たい言い方しかできなかったはずだ。
 なのに、今の「飲めるか?」という響きには、驚くほど自然な――まるで本当の人間のような、労わりのニュアンスが混ざり込んでいた。

「……すこし、なら」

 這うような声で答え、新那は自力で上体を起こそうとした。

「うっ……、あ……」

 しかし、ほんの数センチ頭を持ち上げただけで、脳みそが頭蓋骨の中でぐわんと激しく揺れた。
 視界が上下左右反転したかのようにぐらりと傾き、シーツの上に倒れ込みそうになる。
 その瞬間――。

「無理をしなくていい」

 アールの大きなひんやりとした掌が、新那の華奢な肩を優しく支えた。
 それは、新那が恐怖を感じないよう驚くほど慎重で、細心の注意が払われた力加減だった。まるで、少しでも力を入れればパリンと砕けてしまう、壊れやすい高級なガラス細工でも扱うように。
 アールはもう片方の手で、ゆっくりと新那の背中へと大きなクッションを滑り込ませ、絶妙な角度で身体を固定してくれた。

「これでいい。動くな」

 新那はコクンと小さく頷いた。差し出されたコップの縁に唇を寄せ、冷たいスポーツドリンクを少しずつ、喉へと流し込む。
 冷たい。そして、驚くほど身体がその水分を欲していたのが分かった。
 普段なら何とも思わないはずのただの清涼飲料水の味が、今は干からびた身体の隅々にまで染み込んでいく気がした。

「ん……っ……、ぷは」

 喉の渇きが癒え、熱で昂っていた呼吸が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻す。

「――よかった」

 ぽつり、と本当に微かな音量で、アールが呟いた。

「え……?」
「――いや」

 アールは一瞬だけ、電子回路がショートしたかのように不自然な間を空けた。
 そして、感情のない瞳のまま、いつもの無機質なトーンで言い直す。

「水分補給のプロセスが正常に完了した。安堵に類するシステムログが出力されただけだ」

 新那は何も言わなかった。熱のせいで感覚が過敏になっているだけかもしれない。けれど、今の彼の「言い訳」のような言葉が、胸の奥の柔らかいところにトゲのように引っ掛かって、チクチクと疼いた。
 アールは続いて、綺麗に畳まれていた濡れタオルを広げた。

「冷たい。刺激に注意しろ」
「……ん」

 額の皮膚に、そっと冷たい布が乗せられる。
 ひんやりとした心地よさが頭痛を和らげてくれて、新那は「ふぅ……」と小さく息を吐きながら、気持ちよさに身を任せて目を閉じた。
 すると今度は、脇の下に差し込むためのデジタル体温計をそっと手渡される。

「測るぞ」
「……はい」

 新那は大人しくそれを受け取り、パジャマの隙間へと滑り込ませた。
 今日の自分は、自分でも驚くくらい素直で、わがままを言う元気もなかった。

 ピピッ、ピピッ。

 しばらくして、無機質な電子音が部屋に鳴り響く。
 新那が取り出した体温計を、アールが大きな手で受け取り、液晶のデジタル表示をじっと見つめた。
 そして――彼は、ほんの少しの間だけ、彫刻のように沈黙した。

「……何?  何度あった?」
「三十八度七分」
「うわぁ……」

 思ったよりも高止まりしていた。どうりで、呼吸をするだけでも身体の節々が痛むわけだ。

「解熱剤を飲む。胃への負担を軽減するため、先ほどの水分をベースに錠剤を投与する」
「お願い……。早く楽になりたい……」

 新那は観念したように、布団に顔を埋めながら呟いた。
 アールは手際よくPTPシートから白い錠剤を取り出し、再び水の入ったコップを用意する。その一連の動作には、やはり一切の迷いがない。
 きっと、彼の膨大なデータベースにある『護衛対象が戦闘外(病気等)で行動不能に陥った際のマニュアル』通りに動いているだけなのだろう。
 そういう、冷たい電子のデータが入っているだけ。ただ、それだけ。
 そのはずなのに。

「……ねぇ、アール」

 新那が、薬を飲み終えた後、枕に頭を沈めながら小さく呼んだ。

「何」
「アールって……こういう、看病とかも、完璧にできるんだね」
「できる。当機のライブラリには、あらゆる医療ファーストエイドのデータが網羅されている」

 やはり、一ミリの遅延もない即答だった。

「護衛対象の肉体的健康の維持は、任務遂行において最も重要視される項目だ」
「そっか……。やっぱり、任務、だよね」

 いつもの、ブレのない答え。いつもの、血の通わないアール。
 なのに――。
 さっきから、ズレそうになった額のタオルを直してくれる彼の手つきは、マニュアルの機械工作にしては、妙に、もどかしいくらいに優しくて。
 新那は目を瞑りながら、ぼんやりと考えを巡らせてしまう。
 本当に……本当にそれだけなのだろうか、と。
 熱のせいで、心が弱っているだけかもしれない。
 寂しさに付け込んで、都合のいい幻覚を見ているだけかもしれない。
 けれど、シーツの向こう側から伝わってくる、彼が椅子に腰掛けている微かな気配が。
 この静かで白い部屋に、今は私一人きりじゃないという事実が。
 新那の凍えそうな心を、毛布よりもずっと暖かく、優しく包み込んでくれているのだった。
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