箱入り娘は無感情ボディーガードに護られたい
それでも、この指先を離してしまったら、二度と彼に触れられなくなってしまうような気がして、どうしても離したくなかった。
新那は枕から少しだけ顔を上げ、アールをじっと見上げる。
熱のせいで視界は涙のように潤んでいて、彼の輪郭はひどく滲んでいた。それでも、真っ直ぐに自分を見下ろしている、彼の漆黒の瞳だけは、はっきりと見えた。
「行かないで……」
それは、シーツの擦れる音にすら負けてしまいそうな、消え入りそうな声だった。
まるで、迷子になった幼い子供が、暗闇の中で親を呼び止めるみたいな、情けないほど弱々しい声。
口に出した瞬間、新那の胸に猛烈な後悔と恥ずかしさが押し寄せた。
高校生にもなって、何をやっているんだろう、私は。相手はロボットなのに。感情なんてない、命令をこなすだけの機械なのに。と。
しかし、アールは、その手を振り払おうとはしなかった。
かと言って、何か言葉を発するわけでもなく、ただ大きな影のように、その場にじっと立ち尽くしていた。
「……」
相変わらずの無表情。けれど、その瞳の奥の光が、かつてないほど複雑なパターンで明滅を繰り返している。
彼は、考えていた。
まるで、自分のデータベースの中にある何十億という情報の中から、この「お嬢の涙」に対する正しい最適解を、必死に検索している。
護衛対象。体調不良。精神的不安。休息。付き添い。友情。……甘え。
きっと、彼の中の中央プロセッサで、様々な未学習の単語が火花を散らして処理されているのだろう。
数秒か、あるいは熱に浮かされた新那にとっては永遠のようにも感じられた時間の後。
アールは、小さく「ふぅ」と息を吐いた。
もちろん、彼の人工肺に呼吸による酸素摂取は必要ない。だからそれは、彼がいつの間にか新那の行動を見て学習してしまった、ただの「癖」のようなものだった。
「……ああ」
驚くほど、静かで穏やかな声だった。
ただそれだけを短く出力して、アールは再びベッドの脇へと戻ってきた。
元の位置へ戻したばかりの椅子をもう一度引き寄せ、ゆっくりと、今度は新那の枕元に近い場所へと腰を下ろす。
新那の右手は、まだ彼の制服の裾をぎゅっと掴んだままだった。離さない。どうしても、離せない。
そんな、自分のブレザーを小さく絞る指先を見つめて、アールは何も言わなかった。「邪魔だ」とも「任務の妨げだ」とも言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ。本当に、人間の肉眼では見落としてしまうほど僅かだけれど。
新那を見つめる彼の表情が、柔らかく変化したように見えた。
いつもの冷徹で無機質な鉄の仮面ではなく。まるで、凍てつく冬を乗り越えた春の柔らかな日差しが、北向きの窓の氷をそっと融かしていくような。そんな、名前のない穏やかさを帯びて。
「――ここにいる」
返ってきたのは、それだけの短い言葉。
けれど、世界中のどんな名医の言葉よりも、その一言は新那の胸に真っ直ぐに届いた。
新那は、張り詰めていた心の防波堤が優しく崩れていくのを感じながら、安心したように目を細めた。
「……うん」
全身から、すーっと強張っていた力が抜けていく。
解熱剤の眠気が一気に押し寄せ、熱に浮かされた意識が、心地よい闇の底へと再び沈み始める。
それでも、アールの制服の裾を強く掴む指先だけは、意識が途切れる最後の瞬間まで、決して離れることはなかった。
アールは、その小さな手を振り払わない。
ただ静かに、彼女の呼吸のテンポに合わせて、そこに座り続けている。
開け放たれた窓の外では、すっかり雨の上がった爽やかな春の風が、濡れた街路樹の木々をサラサラと優しく揺らしていた。
部屋の中は、驚くほど静かだった。
ただ、サイドテーブルの上で、時計の秒針だけがチクタクと、二人だけの特別な時間を静かに刻み続けていた。
新那は枕から少しだけ顔を上げ、アールをじっと見上げる。
熱のせいで視界は涙のように潤んでいて、彼の輪郭はひどく滲んでいた。それでも、真っ直ぐに自分を見下ろしている、彼の漆黒の瞳だけは、はっきりと見えた。
「行かないで……」
それは、シーツの擦れる音にすら負けてしまいそうな、消え入りそうな声だった。
まるで、迷子になった幼い子供が、暗闇の中で親を呼び止めるみたいな、情けないほど弱々しい声。
口に出した瞬間、新那の胸に猛烈な後悔と恥ずかしさが押し寄せた。
高校生にもなって、何をやっているんだろう、私は。相手はロボットなのに。感情なんてない、命令をこなすだけの機械なのに。と。
しかし、アールは、その手を振り払おうとはしなかった。
かと言って、何か言葉を発するわけでもなく、ただ大きな影のように、その場にじっと立ち尽くしていた。
「……」
相変わらずの無表情。けれど、その瞳の奥の光が、かつてないほど複雑なパターンで明滅を繰り返している。
彼は、考えていた。
まるで、自分のデータベースの中にある何十億という情報の中から、この「お嬢の涙」に対する正しい最適解を、必死に検索している。
護衛対象。体調不良。精神的不安。休息。付き添い。友情。……甘え。
きっと、彼の中の中央プロセッサで、様々な未学習の単語が火花を散らして処理されているのだろう。
数秒か、あるいは熱に浮かされた新那にとっては永遠のようにも感じられた時間の後。
アールは、小さく「ふぅ」と息を吐いた。
もちろん、彼の人工肺に呼吸による酸素摂取は必要ない。だからそれは、彼がいつの間にか新那の行動を見て学習してしまった、ただの「癖」のようなものだった。
「……ああ」
驚くほど、静かで穏やかな声だった。
ただそれだけを短く出力して、アールは再びベッドの脇へと戻ってきた。
元の位置へ戻したばかりの椅子をもう一度引き寄せ、ゆっくりと、今度は新那の枕元に近い場所へと腰を下ろす。
新那の右手は、まだ彼の制服の裾をぎゅっと掴んだままだった。離さない。どうしても、離せない。
そんな、自分のブレザーを小さく絞る指先を見つめて、アールは何も言わなかった。「邪魔だ」とも「任務の妨げだ」とも言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ。本当に、人間の肉眼では見落としてしまうほど僅かだけれど。
新那を見つめる彼の表情が、柔らかく変化したように見えた。
いつもの冷徹で無機質な鉄の仮面ではなく。まるで、凍てつく冬を乗り越えた春の柔らかな日差しが、北向きの窓の氷をそっと融かしていくような。そんな、名前のない穏やかさを帯びて。
「――ここにいる」
返ってきたのは、それだけの短い言葉。
けれど、世界中のどんな名医の言葉よりも、その一言は新那の胸に真っ直ぐに届いた。
新那は、張り詰めていた心の防波堤が優しく崩れていくのを感じながら、安心したように目を細めた。
「……うん」
全身から、すーっと強張っていた力が抜けていく。
解熱剤の眠気が一気に押し寄せ、熱に浮かされた意識が、心地よい闇の底へと再び沈み始める。
それでも、アールの制服の裾を強く掴む指先だけは、意識が途切れる最後の瞬間まで、決して離れることはなかった。
アールは、その小さな手を振り払わない。
ただ静かに、彼女の呼吸のテンポに合わせて、そこに座り続けている。
開け放たれた窓の外では、すっかり雨の上がった爽やかな春の風が、濡れた街路樹の木々をサラサラと優しく揺らしていた。
部屋の中は、驚くほど静かだった。
ただ、サイドテーブルの上で、時計の秒針だけがチクタクと、二人だけの特別な時間を静かに刻み続けていた。