似た者同士の契約婚 ~結婚しないと宣言した日に出会った相手は、不眠の心臓外科医でした~
 ところが今日はいつもと様子が違った。
 業務終了後に帰ろうとすると、外で洋介が待ち構えていたのだ。

 当然素通りしようと足を速めると、「待てよ」と肩を掴まれた。

「何ですか? 離してください」
「いいから来い」

 せっかく帰ろうとしたのに、ジム内の会議室に連れ戻される。
 もう人気はなく、建物内はシンとしていた。

「何の用でしょう」
「お前、異動したいんだってな」
「それが何か?」

 洋介の耳に入っていることは想定内だ。マネージャーは洋介に逆らえないようだから。

(でも洋介だって嬉しいはずでしょ? 目障りな私がいなくなるんだから)

 それなのに洋介は不機嫌そうな態度だった。
 美空が真意を測りかねていると、洋介は馬鹿にしたように「お前さあ」と深いため息をついた。

「自分の立場が分かってなさすぎ。お前みたいな奴、恥ずかしくて他所にやれる訳ないだろう? 本部に通す前に普通に却下したわ」
「なっ……洋介にっ……村上さんにそんな権限はないはずです」

 予想外の返答に美空は目を丸くした。
 思わず言い返すと、洋介は思いきり顔をしかめた。

「はあ? 俺を誰だと思ってんの? 俺が駄目だって言ったら駄目なんだよ! お前は無能なんだから大人しくしておけばいいんだ」
「無能って……それは村上さんの偏見です! インストラクターとしても受付としてもクレームを入れられたことはないですし、この間のレジの清算ミスだって……」

 美空の言葉に洋介がぎょろりと視線を動かす。そして見下すように美空を見つめた。

「なんだよ? 自分のせいじゃないって言いたいのか? お前は昔からそうだよな? いつも自分が被害者だ」
「そんなつもりはありません」
「いーや。正義気取りで正しいことをして、気遣うふりをしながらこっちのことチラチラ様子見して、キモいんだよ!」

(気遣うふり……この人にとっては、そう見えていたのね)

 洋介の挑発するような態度に、美空は怒りよりも失望していた。
 この人と過ごした時間は全部無意味だった。

 良い経験になった、とすら思いたくない。

「精算ミスは、あなたが仕組んだことでしょう? 監視カメラを見れば分かるはずです」

 美空が静かに告げると、洋介は口元をにやりと歪ませた。

「なんだ気づいていたのか。だけど、お前が気づいたところで何にもならない。皆はお前より俺を信頼しているからな!」

 悪びれもしない洋介態度に、美空は唖然として「なんでそんなことを……」と思わず呟いた。

「なぜかって? 全部お前のせいだろ! 俺の善意を滅茶苦茶に踏みにじったお前に仕返しして何が悪い!」
「善意って……どれのことですか? まさかプロポーズのこと?」
「当たり前だろ!」

 美空の言葉に、洋介が顔を赤くして激昂した。

「それだけじゃない! お前と付き合ってから、俺はずっとお前に良くしてやっただろ! それなのに、たかが浮気されたくらいで調子乗りやがって!! お前は大人しく俺と結婚しとくべきだったんだっ!」

 洋介が叫ぶと、辺りは静寂に包まれた。

「……私にどうしろと?」

 美空が囁くように小さな声で尋ねると、彼は血管を浮き上がらせてピクピクと震えていた。

「俺はお前にっ……クソッ! そんなの自分で考えろ! とにかく、異動はさせない。どうせお前なんか、ここを辞められないんだろうからな!」

 洋介が扉を荒々しく開け放って出ていくと、美空は一人会議室に残された。

(何なの? 一体私にどうしてほしいわけ?)

 美空が目障りなのに異動願を潰した。それなのに、辞めさせたい訳でもなさそうだ。
 彼の意味不明で一貫性のない言動に、美空の気力はすっかり吸い取られてしまった。

(今日はもう何も考えたくないや。早く帰って寝よ……)

 けれど、歩いていると頭の中が余計な考えに支配される。

『上手くいかなきゃ誰かのせいってな』
『気遣うふりをしながらこっちのことチラチラ様子見して、キモいんだよ!』

 洋介の言葉が頭にシミみたいにこびりついていた。

(付き合ってた頃から、ずっとそう思ってたってことか……)

 洋介のことなんか一ミリだって気にしたくないのに、自己嫌悪の感情だけが募っていく。



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