あの日の君へ
第十話 帰る場所
久しぶりの里帰りだった。
改札を抜けると、駅前にはお母さんの車が停まっている。
「結衣!」
窓を開けて手を振る母の姿に、なぜか胸の奥がじわりと熱くなった。
「……ただいま」
車に乗り込む。
ふわりと、懐かしい芳香剤の匂いがした。
ラジオからは、昔よく聞いた曲が流れている。
結衣はそっと目を閉じた。
東京にいる間、ずっと張っていた糸が、少しだけ緩んでいく気がした。
夕焼けに染まる田んぼ道。
初詣に行った神社。
学校帰りに豚まんを分け合ったコンビニ。
車の窓から見える景色のほとんどに、慶ちゃんとの思い出があった。
結衣は、そっと目を逸らす。
その時。
ラジオから流れてきた曲に、結衣は息を止めた。
中学の卒業式のあと。
慶ちゃんと二人で、地元に一つしかないカラオケボックスへ行った。
こっそり行ったつもりだったのに。
結局、クラスのみんなに見つかった。
「うわ、やっぱ付き合ってんじゃん!」
「成瀬、卒業式終わった瞬間鈴原連れてった!」
散々からかわれて。
慶ちゃんが「うるせーな」って笑って。
結衣は恥ずかしくて、ずっと顔が熱かった。
でも。
今思えば、あの頃の私たちは、世界で一番幸せだったのかもしれない。
慶ちゃんが、あの時歌っていた男性ボーカルの歌。
あの時は、ただ切ない歌だな、と思っていたけど。
今聞くと、こんなにも刺さる。
——この手を離したら、もう会えない
また、なんて……あるのかな
拳を、ぎゅっ、と握る。
まるで、今の私みたいだった。
結衣が、ふ、と笑う。
苦しい。
「……止めて」
「え?」
「ラジオ、止めて……」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
実家に帰ると、少し酔った父がおかえり、と笑う。
家族三人でご飯を食べた。
「今日は結衣の好きなからあげ作ったの。いっぱい食べてね」
暖かい時間に、張り詰めていた心が、少しずつ解けていく。
夕食後、自分の部屋の机の引き出しを開ける。
そこに入っていた、お菓子の缶。
開けると、あの頃の思い出。
東京に行く時、残してきた。
その中には、写真や手紙の束。
幼稚園の頃。
泥だらけの二人。
小学校の頃。
入学式、運動会。
どの写真にも慶ちゃんがいて、二人並んで映っている。
中学校の文化祭、修学旅行。
まだあどけない慶ちゃんが、無邪気に笑っていた。
そして。
『結衣へ。ずっと一緒にいような』
付き合って一年の記念日に、慶ちゃんがくれた手紙。
結衣の目から、涙がとめどなく溢れた。
「結衣、コーヒー飲む?」
その時、母がそう言って部屋の扉をノックする。
「お母さんね、心配だったの」
静かな声だった。
「東京の本社に行くか悩んでた時も、慶くんとのこと、考えてたんでしょう」
結衣が黙る。
母は小さく笑った。
「あの時、あなた迷ってたものね」
優しい声だった。
「でも、お母さんは、あなたに自分の人生を大事にしてほしかった」
結衣は、そっと視線を落とす。
——東京で挑戦してみたい。
最後にそう決めたのは、自分だった。
——
翌日、地元の友達に会った。
親友のナオと、その旦那のジュン。
慶ちゃんの友達でもある二人には、昔から何でも話していた。
慶ちゃんと再会したこと。
それが記事になりかかって、迷惑をかけたこと。
会社から、しばらく休めと言われたこと。
全部、話した。
すると、ジュンが言った。
「慶な、鈴原の笑ってる顔が好きなんだって」
「え?」
「あの頃、よく言ってた」
結衣の瞳が揺れる。
「俺さ、高校の時、東京遊びに行って、そん時慶の家行ったことあんだわ」
「その時、あいつがさ」
ジュンが笑う。
「結衣が東京来た時に使うって、ペアのマグカップ買ってあんの。俺、笑っちまってさ」
——上京したばかりの頃の、自信満々だった慶ちゃんを思い出す。
ずっと一緒だと、信じて疑わなかった頃。
“早く卒業して東京に行きたい。慶ちゃんのそばにいたい”
私がそう言った時、とても嬉しそうに笑っていた慶ちゃん。
「……結衣」
その時、ナオが静かに口を開く。
「今、ちゃんと笑えてる?」
結衣の呼吸が、小さく止まった。
「無理に忘れようとしなくてもいいと思うよ」
優しい声だった。
「好きなら、好きなままで」
今は?
今、私たち、自信持って笑えてる?
結衣は静かに拳を握った。
好きだった。
本当に。
今でも、好きだ。
だからこそ。
これ以上、慶ちゃんの隣で苦しくなりたくなかった。
結衣は、ゆっくり顔を上げる。
窓の外には、見慣れた地元の景色が広がっていた。
ナオたちと別れて、一人家に向かう。
『トイレットペーパー買ってきて』
母からのメッセージに、結衣はふっと笑った。
駅前のスーパーへ寄る。
トイレットペーパーを見ていた、その時だった。
「結衣ちゃん?」
優しい声に、顔を上げる。
慶ちゃんのお母さん、梓さんが嬉しそうに笑っていた。
「やっぱり!こっちに帰ってたのね」
スーパーの隣に併設された小さな喫茶店。
「慶ってば、全然連絡くれないの」
梓さんが困ったみたいに笑う。
「最近じゃ、テレビに出てる慶に話しかけてるのよ」
その言葉に、結衣は思わず吹き出した。
「ふふっ……何それ」
「だって返事くれないんだもの」
梓さんが肩を竦める。
「“ちゃんとご飯食べてる?”とか、“寝てる?”とか。つい言っちゃうの」
結衣は笑いながら、少しだけ視線を落とした。
——ああ。
慶ちゃん、ちゃんと愛されてる。
結衣は、そっと目を閉じる。
そして、何かを決意するように深く息を吐いた。