あの日の君へ

第九話 噂



翌日、会社は記事の噂でもちきりだった。

社内の視線が刺さる。

「あの子でしょ、成瀬慶と……」

「CMを理由に近づいたんじゃない?」

「おとなしそうな顔してるのにね」

違う部署の人からも、ヒソヒソと好奇の目を向けられる。


記事は見送られた。

でも、一度広がった疑惑は、完全には消えなかった。

 
ドサ。


声を掻き消すみたいに、自分の席へ乱暴に荷物を置いた市川くんが、

「飲み行くか」

そう言って、柔らかく笑った。



————



「——鈴原って、成瀬慶と地元一緒だよな?」

グラスを置きながら、市川くんが何気なく言う。

結衣の手が、一瞬だけ止まった。

「……なんで?」

「いや、この前資料見てた時、出身地同じだなって」

「ああ……」

「もしかして、元々知り合い?」

その問いに、結衣は少しだけ笑った。

「……幼馴染」

「え、マジで?」

市川が身を乗り出す。

「すげーじゃん」

「別にすごくないよ」

そう答えながら、結衣はグラスに視線を落とした。

炭酸が、静かに揺れている。


慶ちゃんと会うたび、苦しいくらい昔を思い出す。

『結衣、ありがとな。元気出た』

不意に、あの日の声が蘇った。




店を出る。

夜風が、少し冷たかった。

「鈴原」

後ろから、市川くんが呼ぶ。

「……しばらく休んだ方がいいんじゃない?」

結衣が振り返る。

「今、社内かなりピリついてるし」

困ったみたいに笑う。

「お前、たぶん思ってる以上に消耗してる」

結衣は、小さく笑った。

「……そうかな」

でも。

その声は、自分でも分かるくらい、弱っていた。



家に帰り、電気をつける。

しん、と静まり返った部屋は、ひんやりと冷たかった。

その時。

スマホが震える。

画面に表示された名前。


『成瀬慶』


胸が、苦しくなる。


——出たい。

声が聞きたい。

会いたい。

でも。

結衣は、そっと画面を伏せた。


出るのが怖かった。




翌日。

「成瀬側への対応は会社で進めるから、お前は少し休め」

課長の声は、思っていたより優しかった。

けれど。

その言葉が、逆に胸に刺さる。

自分で謝ることすら、許されない気がした。

「……はい」

結衣は小さく答える。

もう何も言い返せなかった。




————



部屋の中は、静かだった。

台所には、昨日使ったグラスが綺麗に並べられている。

床に置かれていた雑誌も、出前の容器も、もう片付けた。

なのに。

ソファに置かれたブランケットだけは、まだそのままだった。

慶は、それをしばらく見つめていた。

——結衣が、ここにいた。

それだけは事実で。

なのに、まだどこか現実感がない。

ただ、自分のせいで迷惑をかけたことだけは、痛いほどわかっていた。

慶は、深く息を吐く。

スマホを手に取る。

履歴の一番上。

『結衣』

静かな部屋に、呼び出し音だけが響いた。



週刊誌騒動から二日後。

CMの打ち合わせに向かうと、そこにいたのは結衣じゃなかった。

「はじめまして、市川です」

聞けば、結衣は有給で地元に帰っているらしい。

まさか、記事のせいで?

「安心してください。鈴原、担当外されたわけじゃないんで」

どこまで知っているのか、市川が笑う。

「幼馴染って聞きました。あいつ、そういうこと、こっちから聞かないと言わないから」

——あいつ。

親しげなその呼び方に、慶はわずかに眉を寄せた。

市川。

あの日、結衣と並んで笑っていた男。

慶は静かに拳を握る。

——俺の知らない結衣を、こいつは知ってる。

俺がいなかった五年を。

そして、堂々と隣に立つことを許されている。

その事実が、思っていた以上に胸をざわつかせた。



昨日、結衣に電話をかけた。

でも、繋がらなかった。

折り返しがくるかと少し期待したけれど、今になっても連絡はない。

このまま、また。

あの頃みたいに、少しずつ連絡の仕方が分からなくなって。

気付けば。

今度こそ、もう戻れなくなるんじゃないか。


ブランケットに触れる。

結衣の匂いが、まだ微かに残っている気がした。

慶は、そっと、視線を落とした。



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