あの日の君へ

第十二話 覚悟


「あの青嶋丈一郎の息子」

世間が勝手に騒ぎ始めて。

勝手に期待して。

勝手に比べた。

周りの視線が、少しずつ変わっていった。

でも。

結衣だけは違った。

そんなこと、どうでもいいみたいに。

ただ、“慶ちゃん”として笑ってくれた。

どれだけ救われていたんだろう。

大事だった。

本当に。

好きだった。

自分でも持て余すくらいに。

離れていた五年も。

再会してからも。

それなのに。

『慶ちゃんと一緒にいると、私が苦しいの』

結衣の震える声が、頭から離れない。

胸の奥が、ゆっくり抉られるみたいに痛んだ。

守りたかったはずなのに。

また、自分は結衣を苦しめてしまった。

『……やっぱり私たち、一緒にいない方がいいと思う』
 
電話の向こう。

泣きそうな声。

『仕事以外では、会わないようにする』

『担当も、変えてもらうつもり』

『……ごめんね』

全部、結衣に言わせてしまった。

そして。

『……あと、お母さんに、ちゃんと連絡返してあげて』

『梓さん、寂しそうだった』

胸の奥が、ぐしゃぐしゃに痛んだ。

「……わかった」

やっと絞り出した声。

通話が切れる。

静まり返った部屋。

慶はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。


『それが、彼女のためでもある』


朝美に言われた言葉が、頭から離れない。




——



「あんた、やる気あるの?」

香織さんがタバコの煙を吐き出す。

「事務所からの電話にも出ないで、撮影にも遅刻するなんて、なんのつもり?」

「……もう、辞めたいです」

会議室に、慶の声が落ちた。

香織さんはしばらく黙っていた。

それから、深く息を吐く。

「あんたねぇ……」

呆れたように笑う。

「私は別にいいのよ」

慶が顔を上げる。

「あんたは、もう充分返してくれたから」

静かな声だった。

「でもね。あんたに期待して、ここまで育てたのは私だけじゃない」

胸が痛む。

東京に出てこいと言われた日。

断った自分に。

寮も。

学校も。

生活も。

全部なんとかするから来い――そう言ってくれた。

何もなかった自分を、ここまで連れてきてくれた人たち。

何も言えなかった。

香織さんが部屋を出たあと。

「香織さん、あんな言い方してたけど」

後ろから朝美の声がした。

「本心では、あんたのこと手放したくないのよ」

朝美は静かに続ける。

「未成年で、地方出身だったあんたを、ここまで育ててくれた人たちに」

その目が、まっすぐ慶を見る。

「あんた、恩を仇で返すの?」

言葉が刺さる。

「そんなことして、彼女が喜ぶと本気で思ってる?」

慶の視線が揺れた。

「あんたの演技は、人の心を動かす」

静かな声。

「泣いてた人を笑顔にしたり。さっきまで笑ってた人を泣かせたり」

「そういう俳優って、そんなにいないの」

朝美はふっと笑った。

「……悔しいけど」

その目が、まっすぐ慶を見る。

「私より、“持ってる”のよ。あんた」

静かな部屋。

「……ひどい顔」

朝美が呆れたようにため息をつく。

「しっかりしなさい」

そして。

「誰にも何も言わせないくらい仕事で成功して」

その目が、まっすぐ慶を見る。

「それでもまだ、お互い好きだったなら」

朝美はふっと笑った。

「迎えに行くくらいの覚悟、持ちなさいよ」

そのまま部屋を出ていく。

扉が閉まる音。

静かな部屋。

慶はソファに深く座ったまま、ぼんやり天井を見上げた。



翌日。

移動中のタクシー。

窓の外を流れる東京の景色を眺めながら、慶は疲れたように目を閉じていた。

ラジオが流れている。

聞くともなく耳に入ってくる声。

その時だった。

ルームミラー越しに、運転手がちらりとこちらを見る。

「あの……成瀬慶さん、ですよね?」

慶が顔を上げる。

「……はい」

「いやぁ、娘がファンなんですよ」

運転手が嬉しそうに笑う。

「バスケのドラマ出てましたよね?」

慶の目が少し揺れる。

「あれ見て、娘、バスケ始めたんです」

思わず、言葉を失う。

「サインとか貰ったら喜ぶかなぁ」

照れくさそうに笑う運転手。

慶は、しばらく何も言えなかった。

窓の外に流れる街明かりを見つめる。


『あんたの演技は、人の心を動かす』


朝美の声が、ふいに頭をよぎる。


慶は静かに目を閉じた。






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