あの日の君へ
第十三話 これで最後
あれから、数ヶ月が経った。
季節は少しだけ変わり、会わないまま、時間だけが過ぎていった。
そんなある日だった。
『結衣ちゃん!!』
スマホの向こうから、弾んだ声が聞こえる。
「梓さん?」
『慶がね、東京に遊びに来たらって、新幹線のチケット送ってくれたの!』
嬉しそうな声。
結衣は思わず小さく笑った。
「よかったですね」
『びっくりしちゃった。あの子、忙しいと全然連絡くれないから』
ふふ、と梓が笑う。
『もしかして結衣ちゃん、何か言ってくれた?』
結衣の呼吸が一瞬止まる。
「……いえ。私は何も」
『そう?』
どこか優しい声だった。
『結衣ちゃんにも会いたいけど、仕事忙しい?』
「……少し」
『そっかぁ』
残念そうにしながらも、梓はすぐ明るい声に戻る。
『またこっち帰ってきたら、ご飯でも行きましょう!』
「……はい」
電話を切ったあと。
結衣はしばらく、スマホを見つめたまま動けなかった。
再び梓から連絡が来たのは、その翌日だった。
『慶がね、その日忙しいらしくて』
電話越しに、梓が少し困ったように笑う。
『せっかく東京行くのに、夜まで全然時間取れないんだって』
「そうなんですね」
『だからね、もし時間あったら、昼間結衣ちゃん少し付き合ってくれない?』
結衣が黙る。
『もちろん無理ならいいのよ? 』
梓が慌てたように続ける。
『でも私、東京よく分からないし……結衣ちゃんと会えたら嬉しいなって』
その声が、あまりにも嬉しそうで。
結衣は、ゆっくり目を閉じた。
——大丈夫。
慶ちゃんに会うわけじゃない。
梓さんと少し会って、帰ればいい。
「……はい」
小さく返事をした。
————
当日。
待ち合わせの東京駅。
人混みの向こうで、梓が嬉しそうに手を振った。
「こんにちは」
「会いたかったぁ!」
ぎゅっと腕を取られ、結衣は思わず笑ってしまう。
昼間の東京は、どこか穏やかだった。
カフェに入って。
雑貨屋を見て。
景色のいい場所で写真を撮って。
梓は子供みたいにはしゃいでいた。
「やっぱり東京ってすごいわねぇ」
「ふふ」
その笑顔を見ていると、結衣の胸も少しだけ軽くなる。
——来てよかったかもしれない。
そう思った。
気づけば、空はすっかり夜になっていた。
「じゃあ、私そろそろ帰りますね」
バッグを持ち、結衣が立ち上がる。
その時だった。
「あ、慶が迎え来るって」
結衣の動きが止まる。
「……え?」
「近くまで来てるらしいの」
胸が、嫌なくらい鳴る。
「わ、私は電車で——」
言い終わる前に、店の外で車が止まる音がした。
そして。
聞き慣れた声。
「……母さん」
結衣の呼吸が止まる。
振り返った先。
そこには、数ヶ月ぶりの慶が立っていた。
「久しぶり」
静かな声。
結衣は、うまく言葉が出なかった。
「……うん」
それだけ返すのが、精一杯だった。
梓はそんな二人に気づかないまま、楽しそうに笑った。
「じゃ、帰りましょ!」
————
車の後部座席では、梓が静かな寝息を立てていた。
「……梓さん、寝ちゃったね」
結衣が小さく笑う。
「疲れたんだろ。歳なのにはしゃぐから」
「ふふ」
窓の外を、夜景が流れていく。
しばらく沈黙が続く。
その静けさが、不思議と嫌じゃなかった。
「……嬉しそうだったね」
結衣がぽつりと言う。
慶は少しだけ目を細めた。
「……ありがとな、結衣」
その声があまりにも優しくて、結衣の胸が少し痛くなる。
やがて、駅近くのパーキングに車が入る。
エンジンが止まる。
静寂。
誰も、すぐには口を開かなかった。
何かを言ってしまえば、終われなくなる気がした。
慶が、ゆっくり手を差し出す。
結衣の呼吸が小さく止まる。
「……これで最後」
慶が、寂しそうに笑った。
その手を、結衣はそっと握る。
温かい。
昔と変わらない、大きな手。
しばらく、無言のまま手を繋いでいた。
離したくない。
でも。
今度こそ、ちゃんと終わりにしなきゃいけない。
二人とも、それを分かっていた。
やがて、どちらからともなく、ゆっくりと手を離す。
「……元気でな」
掠れた声。
結衣は、込み上げるものを必死に押し込みながら、小さく笑った。
「……慶ちゃんも」
ドアを開け、車を降りる。
振り返らない。
振り返ったら、きっと終われない。
そのまま駅へ向かって歩き出す。
慶は、結衣の姿が見えなくなるまで、ただ黙って見送っていた。
そして。
完全に姿が見えなくなった瞬間。
慶はハンドルに額を押し付けるようにして、深く息を吐く。
静かな車内。
後部座席からは、梓の寝息だけが聞こえていた。