あの日の君へ

第十四話 隣に立てるように




「鈴原! 次のCM、お前の名前で企画書作ってみるか?」

「え……?」

思わず顔を上げる。

駒田が、分厚いファイルを机の上に置いた。

「今度発売される新作パフュームのCM依頼が来たんだよ」

表紙には、海外ブランドのロゴ。

「ターゲットは、二十代前半から後半に向かう女性。鈴原の感性、結構合うと思う」

「……私が、ですか?」

「おう。そろそろ一本、自分の名前でやってみろ」

胸の奥が、どくんと鳴る。

自分の名前で。

企画を。

「デビューにはちょうどいいだろ」

駒田がコーヒーを片手に笑う。

結衣はゆっくりファイルに触れた。

ずっしりと重い。

期待の重さみたいだった。

「……やります」

顔を上げる。

駒田が、少しだけ嬉しそうに笑った。

「よし。じゃあまずはコンセプトから考えてみろ」

結衣は頷く。

その瞬間。

ふと、頭に浮かんだ。


——自信を持って、隣に立てるようになりたい。


あの日、決めたこと。

結衣は静かにファイルを抱きしめた。




——




「慶。映画の話が来てる」

マネージャーが、どこか誇らしそうに笑った。

「今度の映画はすごいぞ。主演だ」

差し出された資料。

そこには、大きくタイトルが書かれている。

『主演 成瀬慶』

慶の目が、わずかに揺れた。

「原作は泉麗華の大ヒット小説。監督はあの井上将吾」

「しかも今回は向こうからのオファーだ。“主演は成瀬慶で”って」

静かな部屋。

慶はゆっくり拳を握り締めた。


——誰にも何も言わせないくらい、仕事で成功して。


朝美に言われた言葉が、ふいに頭をよぎる。

結衣の顔も浮かぶ。

慶は静かに顔を上げた。

その目には、もう迷いはなかった。

「……やります」

短い声。

でも、その言葉は真っ直ぐだった。

「やらせてください」




——



——数日後。

休憩中に開いた雑誌。


『主演 成瀬慶』

『原作 泉麗華』

『監督 井上将吾」


結衣は静かにページを閉じた。


「すごいな、成瀬慶」

隣の席から、市川が身を乗り出す。

「……うん」

「連絡した?」

結衣は、ゆっくり首を振った。

「決めたから。私」

市川は、“何を”とは聞かなかった。

ただ、小さく笑う。

「そっか」

そして突然、パン、と手を叩いた。

「じゃあ今日飲み行こうぜ!」

「は?」

結衣が目を瞬く。

「鈴原の企画通った祝い。もう店予約してある」

「強制じゃん」

思わず吹き出す。

「安心しろ。ちゃんと何人か呼んでる」

「……何それ」

結衣は小さく笑った。

今は。

市川のその明るさが、ありがたかった。




——




「そういえばこの前」

朝美が雑誌をめくったまま言う。

「鈴原さんに会ったわよ」

慶の視線が上がる。

「……え?」

「今度のCM」

グラスを揺らしながら、朝美が続ける。

「彼女が作った企画。パフュームのやつ」

慶の目がわずかに揺れる。

朝美はふっと笑った。

「感性いいわよ、あの子」

「プロット見せてもらったけど、すごくいいCMになると思う」

慶は何も言えなかった。

結衣は今も、ちゃんと前に進んでる。

自分の知らない場所で。

ちゃんと、自分の仕事をしてる。

その事実が、少しだけ苦しくて。

でも。

どこか、嬉しかった。



『初めまして。鈴原結衣です。よろしくお願いします』

そう言って、丁寧に頭を下げた女性。

名前を聞いた瞬間、朝美はすぐに分かった。

——この子が、慶の。

結衣は資料を開きながら、落ち着いた声でCMの説明をしていく。

香りのイメージ。

映像の温度感。

光の使い方。

ひとつひとつを、真剣に言葉へ変えていく。

朝美も自然と聞き入っていた。

凛としているのに、どこか柔らかい。

真面目なその姿が、妙に可愛らしく見えて。

——ああ。

慶が好きになるの、分かる気がした。



「……朝美さん?」

慶の声。

朝美はハッとしたように視線を上げる。

「……なによ」

「いや、なんかぼーっとしてたから」

その言葉に、朝美はふっと笑った。

「なんでもないわ」




——




「最近、成瀬慶、演技変わったよね」

街中で、そんな声が耳に入る。

ふ、と足を止める。

「わかる! なんか前より刺さる演技するようになったよね」

「表情とか」

「「声とかね!」」

高校生くらいの女の子たちが、楽しそうに盛り上がっている。

街頭ビジョンには、慶が主演を務める映画の予告。

知らない人たちが、慶の名前を口にしている。

その姿が、少し遠くて。

でも。

少し誇らしかった。


結衣は足を止めたまま、小さく笑った。

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