あの日の君へ
第八話 雨音
慶ちゃんが迎えに来てくれた日から、また少しずつ連絡を取るようになった。
電話や、メールが増えていく。
『115号室』
仕事終わり。
スマホに届いたのは、それだけの短いメッセージだった。
結衣は思わず小さく笑う。
——慶ちゃんらしい。
指定されたカラオケボックスは、会社から少し離れた駅前にあった。
受付を済ませ、細い廊下を歩く。
115号室。
ドアを開けると、ソファに深く座った慶が顔を上げた。
「へい!らっしゃい!」
帽子を深く被っているのに、その声だけで少し安心してしまう。
「なにその言い方」
「ラーメン屋の店員っぽくした」
「ほんと、バカ」
結衣が笑う。
その時だった。
コンコン。
「失礼しまーす」
店員がドリンクを運んでくる。
慶が反射的に帽子を深く引っ張った。
その動きが妙に慣れていて、結衣の胸が少しだけ痛くなる。
店員が部屋を出ると、慶が小さく息を吐いた。
「……なんか、こういうの久しぶり」
「カラオケ?」
「中学ん時思い出す。結衣と、よくこうやって遊んでたなって」
その言葉に、結衣の視線が少し揺れる。
気付けば、あっという間に時間が過ぎていた。
「そろそろ出るか」
「うん」
部屋を出て、会計を済ませる。
帽子を深く被る慶の姿に、結衣は少しだけ現実へ引き戻された。
外へ出た瞬間。
ザーッ、と大きな雨音が響いた。
「うわっ!」
結衣が思わず声を上げる。
「降ってたの!?」
「……全然気付かなかった」
慶も少し驚いたように空を見上げる。
「やば、傘ない」
「俺も」
顔を見合わせた次の瞬間。
どちらからともなく、吹き出した。
「走る?」
「走るか」
雨の中を駆け出す。
濡れるのも構わず笑いながら走るなんて、まるで中学生の頃みたいだった。
近くのコンビニへ飛び込む。
「はぁっ……最悪」
結衣が濡れた前髪を押さえながら笑う。
その時だった。
「……ねぇ、あれって」
「えー、似てるだけじゃない?」
コンビニへ出入りする人たちが、ちらちらとこちらを見ている。
帽子を深く被った慶。
隣にいる自分。
結衣は無意識に、一歩だけ距離を取った。
慶は少しだけ視線を落とす。
そしてほんの少し黙ってから、静かに言った。
「……俺んち、来る?」
結衣の心臓が、小さく跳ねる。
「……いいの?」
——軽率だった。
熱愛報道でCM降板。
スポンサー離れ。
そんな話は、仕事柄、嫌というほど見てきたはずなのに。
「適当に上がって」
「……寒いだろ。今何かあったかいもの」
慶が、タオルを差し出す。
「……ありがと」
タオルを受け取り、お礼を言う。
2人きりの空間。
ただ、視線が絡まる。
「……結衣、髪濡れてる」
優しい声。
その手が、私の髪に触れる。
近い。
その距離に、結衣の呼吸が小さく揺れた。
視線が重なる。
慶の喉が、わずかに動く。
抱きしめたい。
会いたかった。
触れたい。
五年間、ずっと。
でも。
慶はゆっくり手を離した。
「……腹減ってねぇ?」
掠れた声。
結衣が一瞬目を丸くして、それから小さく笑った。
「……何それ」
慶も困ったみたいに笑う。
「いや、なんか、取る?」
「大丈夫」
そう答えた瞬間。
ぐぅ、と間抜けな音が響く。
一瞬の沈黙。
それから。
「……っ、でっけぇ音」
慶が吹き出した。
「うるさい」
結衣も思わず笑う。
「芸能人でも出前とか取るんだね」
「普通に取るわ」
慶がスマホを開く。
「結衣、何食う?」
2人でひとつの画面を覗き込む。
「あ、私これがいい」
「「からあげ」」
声が重なる。
また、笑った。
こんなに自然に笑えたの、いつぶりだろう。
——ああ、こんなだった。
あの頃も。
2人でいるだけで、なんでもない時間が幸せだった。
——
その日は、気付けば、外が白み始めるまで、ずっと話していた。
あの頃のこと。
離れていた五年のこと。
高校時代、慶が忙しくなっていったこと。
結衣が、連絡を控えるようになったこと。
「あの頃……慶ちゃん、よく寝落ちしてたよね」
結衣が小さく笑う。
慶も思わず笑った。
「……してたかも」
「電話も、よくすれ違ってた」
静かな声。
「どっちかがかけても、どっちかが出れなくて」
慶は苦笑する。
「タイミング、ほんと合わなかったよな」
「うん」
結衣が少し笑う。
「運良く繋がっても、慶ちゃん途中で寝ちゃうし」
「……だって」
慶が小さく息を吐く。
「結衣の声、すごく落ち着くから」
結衣が、一瞬言葉を失う。
「……何それ」
小さく笑う。
でも、その目は少しだけ寂しそうだった。
「……高3の時さ、久しぶりに結衣から電話くれたことあったろ?」
結衣の視線が揺れる。
連絡を取らなくなってから一年くらい経った頃。
進路に、悩んでいた時だった。
「……あの時さ」
慶が、缶ビールを持ったまま小さく笑う。
「結衣から電話来た日、俺、スマホ充電切れてたんだよ」
「……うん」
「あのあと慌ててかけ直した」
静かな声だった。
「でも、出なくて」
「……面接中だったの」
結衣が、小さく笑った。
「地元の会社の」
慶が息を止める。
「東京、行くって約束してたでしょう」
「……」
「なのに、電話繋がらなくて。なんか、もう……」
結衣は言葉を探すように視線を落とす。
「邪魔しちゃいけない気がした」
その言葉に、慶は何も返せなかった。
自分も同じだったから。
仕事が終わるのは深夜。
今電話したら迷惑かもしれない。
明日にしよう。
そう思っているうちに寝落ちして。
朝になれば、また仕事だった。
気付けば。
連絡の仕方が、分からなくなっていた。
「……俺も」
慶が、ぽつりと呟く。
「結衣が、もう俺のこと好きじゃなかったらどうしようって思ってた」
結衣が顔を上げる。
「……そんなわけないじゃん」
その声が、少しだけ震えていた。
慶の胸が苦しくなる。
五年。
たった一言、言えていたら。
何か変わっていたんだろうか。
窓の外が少しずつ明るくなっていく。
「あ、やば」
結衣が時計を見て慌てたように笑う。
「もう朝じゃん」
「ほんとだ」
慶も笑う。
その瞬間だけ。
失っていた時間が、少し戻った気がした。
——数日後。
「鈴原、ちょっといい?」
会社に着いた直後だった。
駒田の声に、結衣は顔を上げる。
その表情が、いつもより少し硬い。
「……課長が呼んでる」
胸がざわついた。
会議室に入ると、重い空気が流れていた。
テーブルの上には、数枚のFAX用紙。
結衣は、その見出しを見た瞬間、息を止める。
『成瀬慶 熱愛発覚
お相手は出演CM関係者か』
課長が、無言で二枚の写真を机に置いた。
一枚目。
雨の中、コンビニへ駆け込む二人。
帽子を深く被った慶と、隣で笑っている自分。
二枚目。
マンションへ入っていく後ろ姿。
結衣の呼吸が止まる。
「……これは、お前だよな?」
低い声。
頭が真っ白になる。
「成瀬側の事務所から事実確認の連絡が来た」
結衣は唇を開く。
けれど、うまく声が出ない。
「……」
「クライアントとスポンサーからも、CM公開を一旦待ってほしいと連絡が来てる」
別の社員が続ける。
「マスコミからも問い合わせが入ってる」
結衣は拳を握り締めた。
喉が、苦しい。
その時。
会議室の電話が鳴る。
「もしもし」
課長が難しい顔で誰かと話している。
そして。
電話を切って振り返った課長は、ほっとした顔で言った。
「水澤朝美が、その場にいたというのは本当か?」
結衣の頭が真っ白になる。
すぐには言葉が落ちてこない。
「……はい」
震える声で、それだけ言うのがやっとだった。
「今回は成瀬側が動いて、記事は見送られることになったが」
低い声が続く。
「タレントに迷惑をかけるな」
結衣の指先が、静かに震えていた。
——
「慶。あんた自分の立場わかってる?」
香織さんが難しい顔で腕を組み、タバコの煙を吐き出した。
「……すみません」
震える拳をぎゅ、と握る。
香織さんの机の上には、数枚のFAX用紙。
そして。
雨の中を走る慶と結衣の写真。
マンションへ入っていく後ろ姿。
「……」
慶は視線を落とす。
『成瀬慶 熱愛発覚
お相手は出演CM関係者か』
FAXの見出しが、やけに冷たく見えた。
「……」
何か言おうとして、結局、言葉が出なかった。
その時だった。
「その日は私もいましたけど」
静かな声だった。
なのに、会議室の空気が一瞬で変わる。
振り返った先。
そこにいたのは、水澤朝美だった。
「ただのCMの打ち合わせです」
淡々とした声。
けれど、その言葉に場の空気がわずかに揺れる。
「……朝美」
香織さんが驚いたように目を見開いた。
朝美は慶の方にまっすぐ歩いてきて、その目の前で立ち止まった。
「今回だけよ」
その視線が、まっすぐ慶へ向く。
「私たちは商品なの。会うな、恋愛するなとは言わない。でも、軽率な行動は控えて」
静かな声だった。
責めているわけではない。
でも。
その言葉は、深く刺さった。
「……それが、彼女のためでもある」
慶は視線を落とす。
胸の奥が、じわりと痛んだ。