サイコ医局長の検体
白衣の襟を整える新戸部が、思わず貫に抱きつく。
「ありがとう貫アヅ〜! まさかこの私が不倫疑われるとは思わなかったわ〜!」
ショートヘアのボーイッシュな茶髪に、元バスケ部の高身長な新戸部甘奈27歳が、涙ながらに安堵する。
本当に教授とは全くもって不倫関係にない。のだが、新戸部は少し短気で口が悪いのが難点だ。
そして、ずっとワタワタしていた藤沢もまた胸を撫で下ろし、お辞儀をする。
「ありがとうございます貫課長! まさか、うちの科に乗り込んでくるとは思いませんでした!」
「いいえ。こういった騒ぎには慣れていますので。」
藤沢にお礼を言われた貫が、無表情のまま返す。
もともと顔に出ない貫は、常に冷静だった。
しかも『奥さん乗り込み事件』は、今月に入ってすでに4件目だ。
総合病院では珍しくもない事件に慣れているのは当然のこと。
それに夏には、脳神経外科の教授室で飼っていたカブトムシ13匹が脱走したこともあった。貫はそれにも冷静に対応し、13匹とも無事素手で捕獲したのだ。
「貫アヅさん、ご苦労さまです。どうです? 僕の部屋で一杯エタノールでも。」
冗談なのか、本気なのかも分からない言葉で貫を覗き込んだのは、笑顔の十三郷だった。
大きな身体で、こうも至近距離で覗き込まれたら、誰しも驚いて飛び跳ねることだろう。
しかし貫は、微動だにしなかった。
「申し訳ありません。総務の仕事があります。それにエタノールはアルコールともども嗜みませんので。」
「あなたはアルコールを舐めるだけですぐに眠ってしまいますからね。」
「それ以前の問題ですよ。エタノールで手を除菌するだけで真っ赤になってしまいますから。」
「それは大変ですねえ。化粧品でさえ気を遣う必要がある。いっそ飲用エタノールで耐性を高めるというのも手では?」
「ではその実験をして、仮に私がアレルギーのショック症状で死んでしまったらどうされるおつもりです?」
「それはその時ですよ。僕が責任を取りますから。」
「なるほど。なかなか粋な口説き文句ですね。では、失礼します。」
貫が軽く会釈をして、廊下を歩いていく。
十三郷が楽しそうに貫の背中を見送るなか、ぽつりとつぶやいた。
「あの人、僕がどれだけアピールしても本気にとってくれないんですよねえ。」
その言葉に、新戸部と藤沢が顔を見合わせた。
今のは果たして、アピールだったのかと。
今日もうちの医局長はいかれている。
でも本人は、至って嬉しそうにほくそ笑んでいた。