飼い猫モンブランの魔法

飼い猫モンブランの魔法

 ――一回目、たいして気にも留めなかった。
 夜の十一時過ぎ、仕事を終えて夕飯を外食ですませた帰り道。駅から自宅マンションへと続く住宅街の細い道の途中で、不審な挙動をしている人影が目に入った。その人物は、民家からもれる灯りと手に持った懐中電灯の明るさを頼りに、塀の上や電柱の物陰を黙々とのぞき込み、何かを探しているようだ。
 不審ではあったが、背格好からしてそれはおそらく女性であり、通報するほど脅威にも思えなかったので、翔太はその人影を無視してさっさと自分のマンションへと歩いていった。

 様々な業種の企業を経営する、舘石(たていし)グループ。その数々のグループ会社の中核を成す、舘石商事の現社長の一人息子――それが舘石翔太だ。
 社会人になって五年目。ベテランではないが新人でもなく、ある程度困難な案件もなるべく自発的に処理することを求められる、中堅どころである。
 そんな翔太は、毎日忙しくしている。最後に定時で帰れたのはいつだったか、思い出せないほどだ。そして今日は、来週行われる大型案件のプレゼン準備が大詰めで、帰宅がたいそう遅くなってしまった。

 まだ平社員の身分である翔太だが、実家の両親、特に父親からは、早く役職に就くように求められている。人の上に立ち、誰よりも先を見据え、やがては舘石グループを率いる優秀な人材に、一日でも早くなってほしいと。
 それがこの舘石家の長男に生まれた自分のさだめだと理解しているし、受け入れてもいる。父親の期待に応えられるような人間になりたいと、翔太自身も思っている。
 だが、新芽が一日では大樹に成長しないように、人もまた、立派に成長するには時間がかかる。中身が伴わずに肩書ばかりが偉くなるよりも、今はまだ、この繰り返されるだけの平凡な日々の中に見えているものを吸収したいと、翔太は思っていた。

(リスクヘッジを想定したあのページ……まだ検証が甘い。想定価格に上乗せする根拠として不十分だと、詰められるな……なんとかしねぇと……)

 まだ仕事モードがオンのままの翔太は、プレゼン資料の不備について考えながら、重く疲れた足取りでマンションのエントランスホールに入った。防犯のために、夜でも煌々と輝いている天井のライトが眩しく、疲労困憊の目にはややつらい。
 翔太は郵便受けの中をのぞき込んで何もないことを確認してから、オートロックに向かった。

「ニャァ」

 すると、マンションの中には似つかわしくない鳴き声が聞こえた。
 翔太はオートロックに鍵を差し込もうとしていた手を止め、足元を見やる。すると、グレーの長毛で、大きな目をぐりんと開いた一匹の猫が、翔太を見上げていた。

「ニャァ。ニャァ、ニャアァー」

 猫は人馴れしているのか、甘えるように翔太の足に頬をこすり付ける。その姿は、かつて翔太にすり寄り、「舘石グループの御曹司」と親密な関係になって贅沢な思いをしたいと媚びを売ってきた浅ましい異性たちを彷彿とさせた。
 高校生の頃からその手の危険信号に聡い翔太は、そうした女性たちをうまくかわしてきたので、これまでトラブルになったことはない。しかし、下心を隠しきれない女性からしつこく誘われたり、からまれたりした経験は何度もある。その都度なるべく穏便に、角が立たないように断ったり、必要以上の関係を持たないように気を遣ったりしたが、浅慮な女性たちに辟易した回数はそれなりに多い。そんな経験を思い出してしまったので、猫とはいえ、一方的に馴れ馴れしくふれてくる存在は、疲労で気の短くなっていた翔太の中の苛立ちを一瞬で沸騰させた。

「離れろ」

 ただの猫を相手に、ずいぶんと怖い声が出てしまう。

「ニャァ」
「どっかに行け」
「ニャ~アァ~」
「うるさい、鳴くな」
「ニャァ……ニャァ」

 しかし、猫はめげずに甘えた声を出す。それもしっかりと翔太を見上げ、その視線をからませながらだ。

「ニャァ~」
「はあ……お前、猫でよかったな」

 相手が人間の女性だったなら、もっときつくて冷たい言葉を手当たり次第にぶつけていたかもしれない。
 翔太は観念したようにため息をつくと、止めていた手をオートロックに伸ばし、鍵を差し込んでセキュリティを解除した。そして、足早にエレベーターへと歩きだす。
 猫は嬉しそうに鳴き、翔太の足元にぴったりとくっ付いて一緒にエレベーターに乗り込んだ。それから、エレベーターを降りた翔太が自分の居室の玄関ドアを開けるなり、猫はまるで我が家に帰ったかのようにダッシュでリビングを目指した。我が物顔でソファに飛び乗ると、猫は大きく背伸びをし、横に転がって気持ちよさそうに目を閉じる。ふさふさの長毛なので、瞳や鼻が見えなくなると、ただの毛の塊のように見えた。

(猫じゃなきゃ殴ってるな)

 これがもし女性だったとしても、さすがに女性相手に手を出すようなことはしない。しかし、それくらいの怒りを覚えたいほどの図々しい猫の態度に、さらに疲れが増したような気がした。
 そんな猫を横目に、翔太は寝室でスーツを脱ぐ。クローゼットの中からハンガーを取り出してスーツを掛け、クローゼットに戻す。そしてシャワーを浴びるために、着替えとタオルを用意した。ソファでうたた寝を始める猫には見向きもせずに、浴室へ向かう。
 入浴が終わって洗面所で髪の毛を拭いていると、寝ることはやめたのか、猫がまた足元にまとわり付いてきた。今度は、何か物欲しげに鳴いている。

「ニャァ、ニャァ~」
「なんだよ。飯が欲しいってか? とことん図々しい奴だな、お前」
「ニャアァ」

 それほどでも、とでも言いたいのだろうか。決して褒めたわけではないのに、猫はなぜか自慢げに鳴いた。
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