夜盲


 乃亜くんの自転車が濡れた地面を滑走する。

 重心が後ろに引っ張られていくみたいだった。それに抗うために、彼の背中にしがみつく。



「雨、すごいね」

「…………」

「ねー、乃亜くん?」

「なに? 聞こえない」



 あたしの声が遠くて、聞き取りづらいらしい。

 それも、そうだ。さっきよりすこしマシになってきたとはいえ、雨は相変わらず降り続けているし、乃亜くんもフードを被っているから、物理的に耳が塞がっている。

 逆に今なら、何をどれだけ大声で叫んでも、乃亜くんには届かないということだ。



「佳乃くんがねー、ひどいの」



 乃亜くんには聞こえていなくてもいい。むしろ、聞こえない方が好都合だ。矛先を見失ったまま、ずっと佳乃くんのところでぐるぐると渦を巻いている、ままならないこの感情を、とにかく発散したかっただけだから。



「佳乃くん、首筋にキスマークついてたの。しかも、タートルネックで隠してて、キモくて最悪で笑っちゃった」



 繁華街を抜け、ビルが立ち並ぶ通りにさしかかる。

 しとしとと降り注ぐ雨粒に当てられているのに、なぜか全然寒くない。ウィンドブレーカーの防寒性ゆえか、もしくは、こうして乃亜くんにくっついているからか。わからないけど、ただ、あたたかい。



「あたしもお酒入ってたから、我慢できなくて、泣いて叫んだら、佳乃くんに呆れられちゃったの。頭冷やせよって言われて、ひとりで置いてかれて」



 そこまで話し尽くすと、きゅ、と音を立てて、自転車が止まった。

 乃亜くんの肩の先に、赤信号が見える。車通りはほとんどなく、交差点にはふたりきりだった。それでも乃亜くんは、信号無視をしない。

 彼はこちら側にすこしだけ顔を傾けて、いつもより大きく口を開ける。



「どっちもどっちだけど、あんなとこに女子ひとり置いてどっか行くのは、佳乃が悪いと思う」

「なに、聞こえてたの?」

「夢見さん、声デカいから」

「失礼だね」

「なんだよ。同情してやったのに」



 動くよ、と一声かけられて、自転車がもう一度前進した。重心の揺らぎにあわせて乃亜くんに強く抱きつく。彼はやはり、すこしだけ身体を緊張させた。



「乃亜くん、これ、どこに向かってる?」

「とりあえず駅の方。夢見さんの家、どのへん?」

「西公園より向こう側」

「遠いなー。なんでその場所で名高の方に行かなかったの」

「お姉ちゃんが二人とも私立行ったから、あたしは公立にしなきゃだったの」



 乃亜くんの背中にくっついて、するすると暗闇を縫うように進んでいく。

 途中、ポケットに入れていたスマホが着信音を鳴らした。なんとなく佳乃くんからのような気がしたけど、むかつくから無視してやった。「出なくていいの?」と言う乃亜くんに、「むかつくから出てやらない」と返せば、彼は珍しくけらけらと笑って、「たまにはそーいうのもいいんじゃない」と言った。

 アルコールでぽわぽわとした世界のなかでずっと、佳乃くんに対する愚痴みたいなものを乃亜くんに言って聞かせて、何かを発散させる。乃亜くんはときおり相槌を打ちながら、きわめて丁寧な運転を続けていた。



「でも、あいつが好きなんでしょ」

「……好き」



 ポケットの中で何度も着信を知らせるスマホの音が、気にならないと言えば嘘になる。だけどあたしも強情な女だから、ここはあえて強硬な態度をとってやろうと思う。

 佳乃くんによく似た抱き心地の乃亜くんの背中に身を寄せながら、その肉感に、すこしだけかなしくなった。あたしはこの背中をよく知っているはずなのに、なぜかすごく遠いもののように感じてしまう。

 手が届きそうで、届かない。そんなもどかしさを胸に、無抵抗な乃亜くんの背中をただひたすらに抱きしめた。


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